『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』より #1 週刊文春 電子版

樋田 2021/11/05 文集オンライン

「早大生 リンチで殺される」「革マル派が犯行発表『戦車反対集会でスパイ』」「教室で犯行 東大に遺棄」「早大教授ら 現場へ行ったが警察には届けず」……。1972119日。早大生による早大生への凶行を報じる鮮烈な言葉が新聞各社の紙面を賑わせた。いったい大学内で何があり、このような事態につながってしまったのだろうか。
 ここでは、ジャーナリストとして活躍し、当時、自身も早稲田大学の学生として政治セクトによる理不尽な「暴力支配」と闘った樋田毅氏の著書『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)の一部を抜粋。事件の詳細を振り返る。(全2回の1回目/後編を読む

◆◆◆暴力を黙認していた文学部当局

 キャンパス内で革マル派による暴力が頻発する状況に、文学部当局はどう対応していたのか。 一言でいえば、見て見ぬふりをしていた。これだけ暴力沙汰を起こしているにもかかわらず、文学部当局は革マル派の自治会を公認していたのだ。
 当時、第一文学部と第二文学部は毎年11400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。 第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。

 第一文学部の元教授は匿名を条件に、こう打ち明ける。「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。だから、川口大三郎君の事件が起きて、我々は痛切に責任を感じた。革マル派の自治会の歴代委員長は、他のセクトの学生たちと比べると、約束したことは守った。田中敏夫君も、その前の委員長たちも、我々に対する時は言葉遣いも紳士的で、つまり、話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。しかし、事件後は、革マル派との癒着状態から脱することに奔走した。革マル派との縁を切ることは、文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。民青の学生たちについても、共産党員の教授たちと通じている面があるため、別の意味で警戒の対象となっていた」

 大学当局は、キャンパスの「暴力支配」を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待していたのだろう。

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「文学部はひどい状態だった」集団リンチで死亡した学生の通夜で早稲田大学総長が放った“無責任すぎる”言葉とは

『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』より #2樋田 2021/11/05 3

 1972118日、早稲田大学に通う川口大三郎氏が、同大学生徒の革マル派活動家たちによる8時間にも及ぶ集団リンチによって殺害された。凄惨なリンチ事件はどのような経緯で発生したのか、なぜ学生・大学側は凶行を止めることができなかったのだろうか。(ここでは、ジャーナリストの樋田毅氏による著書『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)の一部を抜粋。川口氏の親友、二葉幸三氏による証言を紹介する。全2回の2回目/前編を読む)

◆◆◆川口君の遺体を確認した二葉さん

 再び、二葉さんの「聞き書き」に戻る。

 翌日(119日)の午前10時頃、下宿先に電話があった。「本富士警察署の者です」と名乗るので、戸惑った。後で聞くと、川口の遺体はこの日の早朝、東大病院の前で見つかっていたので、東大病院を管内に持つ本富士署から最初に電話があったのだ。本富士署の刑事は「二葉さんですね。ちょっと警察に来てもらわないといけないので、連絡を待ってください」と言った。その直後、牛込署からも電話がかかってきた。「すぐに牛込署へ来てくれるか」と言われた。僕は「川口のことですか?」と尋ねたけど、「来てくれたら、話す」と言うだけだった。僕は、胸が締め付けられるような思いで下宿を出て、電車とバスを乗り継いで牛込署へ向かった。
 牛込署に着くと、取調室のような部屋に案内された。そこで、刑事に聞かれるまま、僕の前日の行動を話した。その後、刑事が「ちょっと、確認してほしい人がいる」と告げ、別室に連れて行かれた。 その部屋の片隅に、白っぽいシーツに覆われ、ベッドに寝かされている「人」がいた。遺体だと直感した。刑事が顔の部分のシーツの覆いを取り、「この人は、川口大三郎さんですか?」と尋ねた。 頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった。僕は「間違いなく川口です」と答えた。朝、警察から電話があった時点で、川口は殺されたのだと思っていたので、川口の死に顔を見せられた時も、「自分は冷静だ」と、思い込もうとしていたはずだった。

お母さんお姉さんたちにひたすら頭を下げて
 でも、そこから2時間ほど、僕の記憶は飛んでいる。たぶん、牛込署を出た後、茫然自失の状態で早稲田大学の方へ歩き、文学部の前を通って、さらに歩き続けていたのだと思う。高田馬場駅の近くを歩いていた時、我に返り、「川口のお姉さんに電話しなければ」と思い立った。川口はお姉さんと仲が良く、お姉さんの嫁ぎ先の川崎市の家に下宿し、彼女の夫が経営している建設業の会社でアルバイトもしていた。
 公衆電話から電話すると、お姉さんがすぐに出て、「母もここへ来ています。母に代わります」と言った。すでに警察から連絡が入っていて、お母さんは伊東市の自宅から出てきていたのだと思った。僕はお母さんに「今からそちらへお伺いしてもいいですか?」と聞くと、お母さんは「ぜひ、来てください」と言ってくれた。僕は新宿から小田急線に乗り、登戸駅で降りて電話し、その案内に従って、初めてお姉さんの家を訪ねた。お姉さんのご主人もいた。

「文学部はひどい状態だった」
集団リンチで死亡した学生の通夜で早稲田大学総長が放った“無責任すぎる”言葉とは

『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』より #2樋田  2021/11/05

 僕は、川口のお母さんやお姉さんたちにひたすら頭を下げた。前日の出来事を正直に話し、「川口と一緒にいながら、彼を救うことができませんでした。申し訳ありませんでした」と謝った。お母さんが「あなたがそんなことを思わなくてもいいのよ。やむを得なかったことなのよ」と慰めてくれたことを、今も覚えている。

 リンチ殺人を他人事のように語った早大総長

 翌10日に通夜があった。夜遅くになって、早稲田大学の村井資長総長と渡辺真一学生部長が来た。2Jのクラス担任の長谷川良一先生も同行していた。村井総長は、ありきたりなお悔やみの言葉を述べた後、「文学部だから、こんなことが起こった。文学部はひどい状態だった」と話し始めた。これを聞いて、僕は頭に血が上った。まるで評論家のような、他人事の口ぶりに対して。

「そんなこと、言っちゃいけないでしょ。あなた、大学の責任者だろ。大学の責任者として、学生の命を守れなかったんだ。無責任なことを言っちゃいけない」
 僕は強い口調で言った。
 村井総長は黙ったままだった。彼らが足早に引き揚げた後、川口のお姉さんのご主人から「二葉君、仮にも大学の先生に向かって、あんなひどい言い方をしてはいけない」とお叱りの言葉を受けた。けれども、僕にしてみれば、村井総長の言葉は絶対に許せなかった。周りに人がいなかったら、ひっぱたいていたかもしれない。

川口を死なせてしまった」という気持ちに苛まれ続けて

 1111日、お姉さんの家で川口の葬儀があった。僕のクラスからも10人近くが出席した。葬儀が終わると、お母さんが挨拶をされた。涙ぐみながら、感極まったように「大三郎の周りにいた人に、なんとか息子を救出してもらえなかったのか、悔やまれます」とおっしゃった。胸の奥に溜まっていた思いを述べられたのだ。その言葉を聞き、僕は号泣した。葬儀が終わった後も、僕は泣き続けた。級友たちが「お前のせいじゃない」と言葉をかけてくれる度に、またしゃくり上げて泣いた。川口と、ご家族に申し訳ない、僕が川口を死なせてしまったという気持ちに苛まれ続けた。
 1117日には川口の学生葬が大学の本部キャンパスの前の大隈講堂であったけれど、僕は出席せず、広島の実家に帰った。その直前にクラスの討論の場に一度だけ顔を出し、「田舎へ帰る」とみんなに告げた。それから2週間ほど、東京には戻らなかった。川口が殺されるんだったら、僕だって殺されてもおかしくない。僕も、中核派の人間を知っていたし、会ってもいた。クラスには、川口と僕を中核派の集会に誘った別の級友もいる。この級友は、僕や川口よりも、はるかに中核派に近い。彼が襲われる可能性だってある。もう東京の下宿にはいられない。そんな気持ちになっていた。

 以上が、二葉さんが語った川口君の拉致から葬儀に至るまでの記憶である。

文学部はひどい状態だった」集団リンチで死亡した学生の通夜で早稲田大学総長が放った“無責任すぎる”言葉とは

『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』より #2

樋田  2021/11/05  3 

川口君を救出しなかった大学当局の責任は免れない

 大学構内の教室の中で起きた事件なのに、大学当局は、必要な措置をとらなかった。革マル派は普段から、反対派の学生や教授らへの暴力事件を頻繁に起こしていたのに、教室へ連れ込まれたまま戻らない学生を救出できなかった。
 言うまでもなく教室の施設管理権は、大学当局にある。様子を見に行った2人の教員は川口君の身の危険を十分に察知できたはずであり、施設管理権を行使し、警察に出動要請をしていれば、川口君の命を救うことはできたのだ。半世紀前の出来事であることは承知の上で、大学当局の責任は免れないと思う。
 その後、川口君がリンチを受け、絶命したのは、最初に連れ込まれた127番教室ではなく、隣の128番教室だったことが警察の実況見分でわかった。128番教室は革マル派が普段から自治会室として使用しており、そこから大量の血痕などが検出されたのだ。

革マル派の声明文

 事件直後、革マル派全学連は、馬場素明委員長の記者会見と前後して、中央執行委員会の名でも緊急声明を出していた。その声明はすぐにチラシとして活字印刷され、学内で大量に撒かれた。
 声明文の冒頭は以下のようなものだった。

118日、中核派学生・川口大三郎君の死去という事態が発生した。この事態は、彼のスパイ活動にたいするわれわれの自己批判要求の過程で生じたものであった。それゆえわが全学連は、この不幸かつ遺憾な事態にたいし、全労働者階級人民の前にわれわれの責任ある態度を明らかにすることが階級的義務であると考える。

 118日、全学連は、政府支配階級が強行した相模補給廠(神奈川県相模原市にある在日アメリカ陸軍の補給施設=筆者)からの戦車搬出にたいして断固たる緊急阻止行動を展開するために、早稲田大学に結集し総決起集会を実現した。ところがこの過程で、われわれは、早大構内における中核派学生・川口大三郎君のスパイ活動を摘発した。『革マル殲滅』を呼号しつつ姑息な敵対をつづけてきた中核派の一員としてスパイ活動を担った彼川口君にたいし、われわれは、当然にも原則的な自己批判を求めた。そして彼はスパイ活動の事実を認めた。それゆえわれわれは、さらに、彼のスパイ行為そのものへの誠実な自己反省を追及した。
 ところがこの過程でわれわれの意図せざる事態が生じた。彼は、われわれの追及の過程で突然ショック的状況を起し死に至ったのである。」

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革マル派全学連の、馬場委員長の辞任発表
 その2日後の1111日、革マル派全学連は馬場委員長の辞任を発表し、特別声明を出した。難解な運動用語を多用した声明の一部を抜粋する。

「左翼戦線内部での党派的闘いにおいても―まさに中核派の同志海老原・水山虐殺にたいしてわが全学連が断固たる反撃行動をくりひろげたことに示されるように―ある特殊な政治力学関係のもとでは、他党派の組織を革命的に解体していくために、イデオロギー的・組織的闘いを基軸としつつも、時に暴力的形態をも伴うかたちで党派闘争を推進する場合があることを、単純に否定することはできない。」

「こうした特殊な暴力をあえて行使しなければならない場合には、対国家権力との緊張関係のもとに、かつ〈何のために・いかなる条件の下で・どのように〉という明確な理論的基礎づけのもとに、まさに組織の責任の下に組織的に遂行されねばならない。そしてその際にも、マルクス主義の原則=プロレタリアート自己解放の理念から逸脱するような行為は決してとりえないのである。」

「このような確認にもかかわらず、川口君の死はひき起された。この具体的な結果からするならば、これに携わった全学連の一部の仲間たちは、このような原則にのっとっているという固い確信にたちながらもその思想性・組織性の未熟さのゆえに、事実上、原則からはみ出すような行為をおかしたものといわざるをえない。たとえそれがわれわれ自身が全く予期しなかった突発的なショック的状況のなかでの死であったとしても、この死がわれわれによる自己批判要求の過程で起きたものである以上、その責任を回避することはできないのである。」


自分たちに都合のいい理屈の「自己批判」

 馬場委員長の辞任を「自己反省の一端」であるとし、組織として一応は「自己批判」しているようにも取れる内容ではあった。だが、ここでの「自己批判」は、あまりにも自分たちに都合のいい理屈であり、到底、納得のできるものではなかった。
 革マル派は声明で、川口君は中核派活動家で、スパイ行為をしていたので追及した。その過程は正しかったが、死という事態を招いた。つまり、彼が死んでしまったので、その結果についてのみ、反省すると一貫して主張しているのだ。
 革マル派は、自分たちが行使する「革命的暴力」は、組織的にコントロールできる、と考えていた。だから、川口君の「予期せぬ死」については自己批判するというのだ。その上で、自分たちの暴力は革命理論によって管理された暴力なので正しいが、他セクトの暴力はそうではないので間違っているとまで言い切っていた。
 この声明を聞いて、それまで革マル派による学内での暴力行為について見て見ぬふりをしていた一般の学生も、さすがにもう黙ってはいなかった。そもそも、川口君がスパイであったと断定する言い分に疑惑の目が向けられていた。

立証されないスパイ行為

 第一文学部自治会の田中委員長は、事件の2日後から連日続いた一般の学生たちの抗議集会に出席して、「川口君のスパイ行為の事実を完全に立証し、裏付ける川口君の書いたメモを証拠物件として把握しているが、権力との緊張関係と高度の政治力学における特殊な問題なので、公開できない」と説明していた。それに対して、学生たちは「証拠があるなら、それを見せろ!」と追及していた。

 田中委員長は毎日新聞の取材にも応じ、こう語っている。

――川口君は君らに自己批判を要求されるようなことを本当にやっていたのか。

 

田中 われわれの調査で彼が新宿区のアジトに出入りし、一定の人とも接触していたことがはっきりしている。(中略)しかし母親の心情を考え、また“左翼仁義”からも、これ以上明らかにするのは控えたい。」

 「――川口君のお母さんにあやまったといったが、その具体的な誠意として殺害犯人を自首させるつもりはないか。 

田中 考えていない。自首は権力との闘いに敗れたことになり、自己批判をした意味がなくなる。」(1122日付 朝刊)

 私は、この記事の中の「母親の心情」「左翼仁義」という言葉に強い違和感を持った。「真実を話せば、母親の気持ちを傷つける。左翼の世界の仁義にも反する」という意味合いでの言葉であろうが、それ以前に田中委員長は、川口君がスパイであったという証拠を開示すべきであり、それができないのなら、スパイ行為はなかったと認めるべきなのだ。
 田中委員長はこのインタビューで、川口君が中核派のアジトに出入りしていたとは述べたが、スパイ行為については一言も触れていなかった。 そして、田中委員長が表明したように、事件の実行犯が自首することはなかった。

逮捕されるも完全黙秘

 警視庁の捜査は難航したが、二葉幸三さんら目撃者の証言に基づき、犯行時間帯に127番教室や128129番教室に出入りしていた革マル派の活動家を特定し、事件から約1か月後の1211日に、漸く一文と二文の自治会関係者が相次いで逮捕された。
 しかし、彼らは取り調べに対して、「完全黙秘」を貫いたため、二葉さんらへの暴力行為についてのみ起訴され、肝心の川口君が殺された事件については立件されないまま釈放されることになった。
【前編を読む】《早稲田大学集団リンチ「丸太や角材でめちゃくちゃに強打され…」学生から学生への凶行はなぜ起きてしまったのか


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早大の川口大三郎事件」を忘れない彼は早稲田で死んだ2021/11/12

 1972年11月8日、早稲田大学構内で文学部2年生の川口大三郎さんが革マル派の学生に拉致され、殺される事件が起きた。革マル派は、川口さんを中核派の学生と疑い、凄惨なリンチを加えていた。本書『彼は早稲田で死んだ』(文藝春秋)は、この事件を改めて振り返ったノンフィクションだ。著者の樋田毅さんは元朝日新聞記者。

『海辺のカフカ』にも登場

 この事件は、当時の多くの早稲田大学関係者には忘れられないものだった。村上春樹さんは、『海辺のカフカ』の中で川口さんをモデルにした人物を登場させている。直木賞作家の松井今朝子さんの『師父の遺言』にも関連の記述がある。ともに事件当時、文学部に在籍していた。

 川口さんは、革マル派が拠点とする早稲田大学文学部の、自治会室として使われていた教室で集団リンチを受けた。川口さんが連れ去られた後、友人らが大学当局に救出を訴えたが、大学側は積極的な救出活動をしなかった。川口さんは翌日、変わり果てた姿で、なぜか文京区の東大病院の前に放置されていた。

 多くの一般学生は、早稲田祭の2日後に起きたこの事件に衝撃を受け、革マル派を糾弾する集会が続いた。数千人規模の学生が集まった。川口さんの友人たちは、川口さんが部落問題などに関心は持っているものの、中核派ではないということをよく知っていた。革マル派はいったん謝罪の姿勢を示したが、やがて巻き返し、キャンパスは再び革マル派に支配される――というのが当時の状況だ。

名前を替え、まったくの別人生

 樋田さんの本書には大別して三つの特徴がある。一つは、リンチした側の革マル派関係者にも取材していることだ。本書の冒頭は、当時の早稲田大学文学部自治会委員長に会いに行くところから始まる。 地方都市の駅を降り、家を捜し歩いて2時間。玄関のブザーを押すと、初老の女性が出てきた。「ここは田中敏夫さんのお宅ですか」と尋ねると、女性はいきなり、「あなたは革マル派の方ですか」と問いかけてきた。「いえ、違います」と慌てて答え、来訪の主旨を話そうとすると、「それでは、中核派の方?」と畳みかけてくる。女性は田中さんの妻だった。

 最終章の第7章では、樋田さんと、当時の文学部自治会副委員長との「4時間の対話」が掲載されている。委員長代行も務めた大物だ。彼は名前を替え、まったくの別人生を送っていた。学生運動をしていたころの記憶は「エアポケット」になっているという。このほか、リンチの実行犯だった人物にも会っている。

 70年代から80年代にかけ、本件のような「誤爆」も含めて多数の内ゲバ事件が起きた。死者は100人に上るといわれるが、犯人はほとんど捕まっていない。ましてや襲撃した側の人物の証言は皆無に近い。その後の彼らの人生も闇に包まれている。それだけに本書の「元革マル派活動家」への取材は社会史的にみても貴重だ。

革マル派自治会執行部をリコール

 本書のもう一つの特徴は、著者の樋田さんも当事者だというところにある。樋田さんは事件当時、文学部の1年生。川口さんの1年後輩に当たる。語学のクラスが同じだったこともあって、生前の川口さんを見かけたこともあった。

 事件まで樋田さんは、政治活動とはほぼ無縁だった。体育会漕艇部に属し、新宿のマグドナルドでバイトをしていた。しかし、理不尽なリンチ殺人事件が樋田さんの正義感に火をつけた。あっという間に、革マル派を糾弾する側のリーダー格になり、奔走。一時は革マル派自治会執行部をリコールするところまで追い込んだ。

「H君、文学部一年生。暫定自治会規約など議案書作成者の一人だ。小柄だが特徴のある長髪、あごヒゲをふりかざし、一文クラス討論連絡会議を代表し、千人を超す学生を前に熱弁をふるった。しかし、川口君が殺される前まではコンパ(飲み会)を愛し、酒に酔っては友と肩を組む学生だった...」

 「ある学生の軌跡」として当時、毎日新聞に登場した「H君」が樋田さんだった。気恥ずかしくもあったが、自らが取材され、活字になった経験が引き金になり、樋田さんは新聞記者を志すことになる。

記者になり「赤報隊事件」

 キャンパスが再び革マル派支配になると、今度は樋田さんが革マル派に狙われる立場になった。鉄パイプで何度か襲撃され、重傷を負ったこともある。いったん大学院に進んで、78年、朝日新聞記者になった。 そこで樋田さんはもう一つの「理不尽な殺人事件」に深く関わることになる。「朝日新聞阪神支局襲撃事件」。これが本書の3つ目の特徴だ。

 1987年5月3日、朝日新聞の阪神支局が襲撃され、後輩の小尻知博さんが目出し帽をかぶった何者かに散弾銃で射殺された。すぐに大阪社会部で5人の専従班が組織された。樋田さんも指名されてメンバーになった。

「銃弾で倒れた小尻君と、早稲田での川口大三郎君の死が、心の中で重なっていた」

 樋田さんは時効までの16年間、犯人を追い続けた。さらにその後も個人的に取材を続け、30年間に約300人の右翼関係者に会ったという。2018年には『記者襲撃 赤報隊事件30年目の真実』(岩波書店)を出版している。

 NHKスペシャルは2018年1月末、2回に分けて「未解決事件File.06 赤報隊事件」を放映、草なぎ剛さんが真相に迫る記者役を演じていた。樋田さんがモデルだ。

 本書と、『記者襲撃』を合わせて読むと、樋田さんの不屈の執念と誠実さ、律儀さを改めて知ることができる。 (BOOKウォッチ編集部

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50年前起きた内ゲバ殺人事件描いた『彼は早稲田死んだ』を .

50年前に起きた内ゲバ殺人事件を描いた『彼は早稲田で死んだ』を読む

中川文人(なかがわ ふみと)