個性を尊重する米国社会
他国の立場から日本を見る アメリカ体験記

                                 大脇 準一郎


 小生が米国で生活したのは1985年から89年までの4年間、渡米に当たり
今は亡き松下正寿先生が「米国の良いところは個性を尊重してくれることである。
十二分に個性を伸ばすように!」と激励
してくださったことを思いおこす。

 半世紀ほど前、わが国が米国に敗れたのは圧倒的な科学技術力の差であった。
日米貿易摩擦の声が聞かれる今日、「もはや米国に学ぶものは何もない」という
風潮が見られ、心ある知日家たちは「日本はまた傲慢になってきた」と危惧して
いる。残念ながら“大和魂”“東洋精神”には欧米に科学的技術を生み出した土
壌、個性や自由の尊重、科学的精神(合理主義、経験主義)が欠落していた。和
のために周囲に気兼ねし、常に個性を殺すことを強要される忠誠心、無私の文化
と個性の尊重、自己主張の上に築かれる正直文化とは両極にある。

 米国人は旧大陸の圧制の中から脱出し、自由を勝ち取り、憲法で生命、自由、
幸福の追求を高らかにに謳歌している。私はこの自由の風土の中で人格を美しく
花咲かせている人に数多く出会った。また日米文化の狭間にあって両文化を見事
に自らの中に調和させている高貴な魂とも出会った。さらに異文化の谷間で雑草
のようにたくましく生きている移民達とも交った。風俗、習慣の異なる人種を包
摂し、問題を抱えながらも未来に対して果敢な挑戦を試みるアメリカの寛容さ、
ダイナミックなバイタリティーに驚嘆する。

 この自由の風土とフロンティア精神とが相俟って、相互扶助のボランティア精
神が活発なことが印象的であった。国や社会、家族が過保護なほど面倒見のよい
日本とは対照的に、米国は個人の自由を守るために、なるべく政府や集団は個人
に干渉しない方が良いと考えている。そのため国や社会は自分達が造るものとい
う意識が根付いており、それが積極的な社会参加となって現れている。

 もう一つ印象深かったことはキリスト教の伝統である。ハーバード大、エール
大、ブリンストン大をはじめ米国の超一流大学は、キリスト教伝道師を養成する
神学校から出発した。どこのキャンバスでも教会堂が中央に建ち、神学を中心と
した哲学、哲学の中の一部門が諸科学というヨーロッパからの伝統の故に、今も
博士号は、大きくは、神学博士と哲学博士に二分されている。近代に至って中核
であった神学が生命を失い、哲学が貧困となるに及んで大学は、ユニバーシティー
からマルティバーシティーへと拡大し空洞化している。再び神学、哲学を中心と
したユニバーシティーへの輝きがハーバードを中心に鼓動し始めたのも、私が訪
米中の出来事でした。

 教会は地域の住民にとって最も気軽な社交の場である。短い説教が終わると地
下室でコーヒーとケーキなどの軽食を頂きながら交流している。牧師が出口に立っ
て、帰り行く一人ひとりに笑顔で握手をしながら応対する。また運動神経と音感
に恵まれた黒人の礼拝は、聖歌のリズムに乗って聴衆が踊りだし、パワーに溢れ
ている。

 無論、米国の影の部分とも出会いました。米国は大志を抱いて一旗上げようと
いう若者にとっては限りなく魅力のある国ある。地位、家柄などに関係なく努力
しさえすれば資格を得て、平等に報いられる社会であるからです。しかし、それ
が一代、二代と続く努力の差で社会的階層の差が出てきているのも事実である。

 また4年間の滞在中、4度も盗難に遭いました。デパートのエレベーターの中、
バスの停留所、マクドナルドのお店などでわずか数秒の間隙をぬって盗み出す、
その見事さに唖然とする。犯人は黒人の青年に多く、麻薬を買うお金欲しさに犯
行に走るケースが多い。離婚経験3、4回というのが常識化しているのは驚きま
したが、これも親としての責任というよりは、個人の幸福を優先する考え方に大
きな原因があるようだ。これらのことを通して、全てを関係の中に見出そうとす
る東洋的な発想と調和させる必要性を感じさせらた。

 日米の生活習慣は名前の呼び方、車の運転、お金の数え方、あらゆる面で正反
対のことが多く、最初は戸惑いを感じざるを得ません。そして何年か米国に暮ら
していると米国民一般の日本人に対する国民感情に、根深い反日感情があること
を発見します。真珠湾攻撃、特攻隊をピークに切腹やあだ討ちは、米国人の目に
人権無視の野蛮人と映っています。金力に任せた怒涛のごとき投資ラッシュに米
国人が過敏になるのも、欧州と違って日本人の価値観が理解できず、不気味に感
じるからでしょう。

 米国の病理を治すために日本が役立つとすれば、まず米国の長所と短所を深く
理解し、米国人に対して日本人がどう映っているのか相手の立場から日本を見つ
め直すことであろう。   
                       『シカゴ新報』1989年2月10日