李 方子 妃殿下

1, ご生涯(ウィキペディアより)

1901年(明治34年)11月4日、梨本宮守正王と伊都子妃の第一女子として生
まれる。1920年(大正9年)4月28日、李垠と結婚。婚礼の直前に婚儀の際に
朝鮮独立運動家による暗殺未遂事件(李王世子暗殺未遂事件)が発生した。

1921年(大正10年)、第一子晋が誕生。1931年(昭和6年)、第二子玖が誕生。
1970年(昭和45年)、李垠と死別。

障害児教育に取り組んだ。七宝焼の特技を生かしソウル七宝研究所を設立、
七宝焼、書や絵画を販売、李氏朝鮮の宮中衣装を持って世界中を飛び回り、
王朝衣装ショーを開催する等して資金を集め、知的障害児施設の「明暉園」と
知的障害養護学校「慈恵学校」を設立。方子の尽力は韓国国内でも好意的に
受け止められ、1981年(昭和56年),韓国政府から「牡丹勲章」が授与された。
終戦後の混乱期に韓国に残留したり、急遽韓国に渡った、様々の事情を抱え
た日本人妻たちの集まり、在韓日本人婦人会「芙蓉会」の初代名誉会長を
勤めた。また前述の福祉活動や病気治療のため度々来日し、昭和天皇・香淳
皇后を始めとする皇族とも会う。

1989年(平成元年)4月30日逝去、享年87。葬儀は、韓国皇太子妃の準国葬
として執り行われ、日本からは三笠宮崇仁親王夫妻が参列。後に韓国国民
勲章槿賞(勲一等)を追贈された。


、写真で見るご生涯
  

3、「かつての日本は美しかった」
  
正式に父守正殿下から婚約を告げられたとき、「よくわかりました。大変な
  お役だと思いますが、ご両親のお考えのように努力してみます。」と答えら
  れたそうです。

   この方子女王の返事には母の伊都子妃殿下は毅然として映ったものの、
  それがゆえ、いっそう心を痛まれたと言います。方子女王はこのときまだ
  学習院の学生で丁度夏休みのことでした。2学期が始まった初登校の日、
  髪は韓国式に結い昂然(こうぜん)として登校します。その姿に学友たち
  は覚悟を感じ、圧倒され、感心したと言います。

  明治天皇の愛情をふんだんに受けて育った李垠殿下は口数が少ない方で
  したが、結婚後、方子妃が帰宅する李垠殿下を青いチマチョゴリで出迎え
  ると「よく似合いますよ」と応えされたといいます。

 
4、「韓国を祖国として福祉活動」(国際留学生協会「向学新聞」より)
 全文は上記のサイトをクリックください。 以下抜粋です。

 政略結婚で李王朝に嫁ぐ  夫への愛と献身

  日本の皇族から韓国の皇太子に嫁いだ日本女性がいた。日韓の不幸な
 関係を象徴するかのような辛い人生を立派に生き抜いた李方子。数奇な
 運命に翻弄されながらも、夫への愛と献身を貫いた。晩年は韓国を祖国と
 して、不幸な子供達のために福祉活動に専念。今、韓国の土に眠る。

日韓の溝

  李方子を扱うことは、日本人としては非常に心の痛いことである。日韓の辛
 くて暗い歴史の溝の中に投げ込まれた人生を送らざるを得なかった女性で
 あったからである。方子は、1901年11月4日、皇族梨本宮家の長女として
 誕生した。18歳で韓国(当時は朝鮮)の李王朝26代高宗皇帝の王子李垠
 に嫁ぎ、彼女の人生は、日韓の相克の渦の中で翻弄され続けることになる。
 それは彼女だけではない。その夫の垠にしても同様で、ある意味では方子
 以上に屈辱を味わい、辛酸を舐め尽くした人生であった。

  1897年に生まれた李垠は、日露戦争後の1907年10歳の時、日本留
学を強要された。皇太子であった垠を日本で教育し、日韓両国の永遠の礎
を築こうという伊藤博文(初代韓国総監)の遠大な計画に基づいて実行され
たことである。しかし、韓国側は当然これを人質と受け止めた。

  韓国の植民地化は、事実上は日露戦争終了(1905年)をもって始まった。
その2年後の留学である。留学というのは名目で、実際は人質と見るのが自然
であろう。10歳にして両親から引き離されて、人質の立場に身を置きながら、
後には日本の軍人となっていくのである。垠の苦悩は想像を絶するものであっ
たろう。

悲劇の結婚と方子の決意


  二人の結婚は、はじめから悲劇を孕んだものであった。それは軍閥が決定し
たいわゆる政略結婚というばかりではない。実は、方子は皇太子裕仁親王(後
の昭和天皇)の有力なお妃候補であった。しかし侍医から不妊症と診断され、
お妃候補から引きずり落とされた。その不妊症とされた方子を李王朝の皇太子
に嫁がせようと言うのである。明らかに李王家を断絶させようという軍閥の思惑
があった。後に方子が垠の子供を生んだとき、方子を診察した侍医は処罰され
たという。

  悲劇はそればかりではない。当初二人の結婚は1919年1月に予定されて
いたが、垠の父、つまり第26代皇帝高宗が急死し、結婚が1年延期になった。
それも、高宗の死は日本人による毒殺と噂されていたのである。後に明らかに
なったことであるが、これは朝鮮総督府の官吏(日本人)が宮中典医を脅迫し
て、毒を盛った暗殺事件であった。方子は日本人として、婚約者垠に対する罪
悪感で苦しんだ。しかし、自分たちの意思でどうなることでもない。「日鮮融
和」というスローガンが重く方子の肩にのしかかった。

  そういう中でも唯一の救いは、方子の決意が堅かったことであった。14歳
で李王家に嫁ぐことが知らされた直後、彼女はまず髪型を変えた。髪を真ん中
で分け、ぴたりと横にとき流した朝鮮式の髪型である。異国の王朝に嫁ぐ彼女
の決意の現れであった。この決意は高宗の死に際しても揺らぐことはなかった。
自分の辛さに思いを向けるのではなく、婚約者垠の胸の内を推察し、むしろ彼
を慰めてあげたい。そのためにも、夫を心から愛する妻になり、暖かい家庭を
築いて差し上げたい。この気持ちが変わらなかったからこそ、結婚後の次々と
襲う危機と困難を乗り越えることができたのだ。

長男晋の誕生と死

  方子の夫垠は感情を表すことがきわめて少なかった。日本留学に向かう出
発直前、父の高宗が「日本に行ったら喜怒哀楽は顔に出さないように」と諭し
たからでもあろうが、人質という複雑な境遇がしむけた一つの「生きる知恵」で
あったのであろう。

  そんな垠が幸福感に満たされた時があった。息子の誕生である(1921年8月
18日)。不妊の女と言われた方子が元気な男の子、それも李王家の跡継ぎを
生んだのである。出産直後、「元気な男の子です。ご苦労さま」と言って、垠は
優しく方子を労わった。そこにはそれまで方子が見たこともない、顔をほころば
せながら、喜びに満ち溢れた夫の姿があった。それを見て、方子は涙がこみ
あげてきた。

  しかし、そんな誰もが感ずるごく一般の夫婦の幸福は、長くは続かなかった。
恐れていた最悪の悲劇が彼ら二人を襲った。息子の死である。  親子3人で
の朝鮮への里帰りのため、1922年4月23日3人は東京を出発した。結婚後
の初めての里帰りであり、朝鮮王朝風の結婚式を祖国で上げることにもなって
いた。長男の晋はまだ8ヵ月の赤ちゃんであり、離乳時期を迎えたばかりであっ
た。気候風土の変化で病気にでもなったら大変である。二人は晋を日本に残し
ておきたかった。しかし、韓国側の「子供を連れてきてほしい」という強い要
望を飲まざるをえなく、結局三人で里帰りすることになったのである。

  方子は後に、「8ヵ月の赤ん坊を連れていくということは本当に心苦しゅう
ございました。連れていくのは嫌だとは、どうしても申されない立場ですから
ね。本当に苦しんだことがございます」と胸の内を語っている。

  朝鮮式の結婚式がつつがなく執り行われ、帰国の日も近付きつつあった
とき、それまで元気にしていた晋が突然息遣いが荒くなり、嘔吐を始めた。
医師は急性消化不良と診断した。しかし、晋の容態は一向に回復しない。
むしろ悪くなる一方であった。母の必死の介護や祈りの甲斐なく、1922年
5月11日ついに8ヵ月の赤ちゃんは亡くなってしまった。

  「なぜ、私を死なせてくれないのか」と言って、方子は冷たくなった子供の
亡骸を抱いて、ただ泣くばかりであったという。当然、毒殺の噂が立った。
「李王朝に日本人の血が入ることに拒んだ者の仕業ではないか」と。しかし、
真相は闇の中である。真相はどうあれ、晋の死が毒殺と考えることが自然であ
るほどに両国の溝は深刻であったのである。

  5月17日、晋の葬儀が行なわれた。方子は、晋がお腹のなかにいたときに
編んだ毛糸の衣類やおもちゃなどを棺に納め、宮殿で葬列を見送った。彼女
が我が子のためにやってあげられたことは、それだけだった。親子3人の最初
の里帰りが、息子の死という悲劇の結果となり、傷心のうちに方子は帰国した。
 悲しみに沈む方子を慰めたのは、常に夫であった。垠は悲しみを押し殺し、
全てを忘れようとするかのように軍事訓練に没入した。人質としての辛く寂し
い体験を通して、彼はたくましい忍耐力を有するようになっていたのであろう。
方子は夫に励まされ、徐々に立直っていくのである。