11月17日、くにたちふれあいコンサート
     韓国・檀国大学校の音楽家が出演
 来る十一月十七日、東京・国立市のくにたち市民芸術小ホールで第十四回「くにたちふれあいコンサート」が、韓国・檀国大学校の音楽家を迎え、「日韓親善友好と音楽の調べ」として開催される。開場午後一時半、開演二時で入場無料、主催は高齢者福祉を考える会。アクセスは、国立駅南口のバス乗り場4番から矢川駅行で「市民芸術小ホール」下車。問い合わせは野中氏(電話042-577-1700)。開催までのいきさつを同市在住の声楽家・遠藤喜美子さんに伺った。(多田則明)

 始まりは高齢者福祉
 出演者は、洪性恩・檀国大学校音楽大学長(チェロ、ハンガリーラプソディー)、李英華・同大声楽科長(テノール、オペラ「愛の妙薬」、洪蘭坡歌曲メドレーほか)、崔綸牙・同大器楽科教授(ピアノ、ショパンのバラード)、遠藤喜美子(ソプラノ、初恋ほか)、尾張拓登(バイオリン、ツィゴイネルワイゼン)など。
 主催団体の高齢者福祉を考える会は平成十四年、国立市が七十五歳以上の独居老人で申し込みをした人に、見守りを兼ねて牛乳を配る福祉事業を再開したのがきっかけで、同市在住の声楽家・遠藤喜美子さんの呼び掛けで地元有志により設立された。
 聖学院大学を退職後、地域のために何かしたいと思っていた遠藤さんは、予算不足で福祉費が二千万円減額され、それまで二十六年間続いてきた前述の牛乳配達が中止になり、高齢者が残念がっているのを聞き、市の福祉部に抗議した。福祉部長から、再開するには市議会に陳情書を出せばいいと教わり、遠藤さんは知人の有力者の仲間を募って「高齢者福祉を考える会」を立ち上げ、陳情書を出し、市議会の各会派を回り、賛成を呼び掛けた。その後、傍聴に行った議会で見直しが決まった。
 遠藤さんらは会として何かお礼がしたいと思い、遠藤さんが無償で出演して音楽会を開き、二十曲一人で歌ったのが「くにたちふれあいコンサート」の始まり。経費は寄せられたお祝い金などでまかなえた。牛乳を配っている高齢者にアンケートを取ると好評で、ぜひ続けてほしいという希望が寄せられ、一回限りのつもりが続けることになったという。
 「一人でも多くの人が福祉に関心を持つようになるのを願って始めたことですが、協賛金や会場での寄付金も寄せられ、みんなでやろうという雰囲気が盛り上がって、毎年続けることになったのです」と言う遠藤さん。元気な限りは歌い続けることにしている。
 
 洪蘭坡の評伝執筆
 韓国から張忠植理事長はじめ著名な音楽家が来日出演するのは、遠藤さんが二〇〇二年に出した『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』(文芸社)の縁。洪蘭坡(ホン・ナンパ)は韓国で広く知られる「鳳仙花」「ふるさとの春」などを作曲し、韓国近代歌曲の父と言われる作曲家でバイオリニスト。日本の滝廉太郎や山田耕筰に当たる人物である。
 遠藤さんは昭和二年、福岡県の生まれ。福岡県立女子専門学校家政科(現・福岡女子大学)を卒業して国立音楽大学声楽科に進み、東京藝術大学音楽科に国内留学していた時、民族音楽の小泉文夫教授に出会い、アジアの音楽に目覚めた。
 「小泉先生は日本の音楽教育にアジアの音楽を取り入れるべきだという考えで、インドネシアの楽器、ガムランの指導を受けたりしました。それまでは西洋音楽一辺倒で、藝大や音大の声楽の試験ではドイツ語かイタリア語で歌曲を歌わなければならず、日本の歌など眼中になかったため、目からうろこで大きな影響を受けました」と遠藤さん。日本の歌を習うため、高齢の山田耕筰の元に通い、教えを受けた。
 「私が山田先生に手紙を書いて、先生の歌を歌いますから、ぜひ教えてくださいとお願いすると、ぼくの歌を歌える人は日本に一人もいない。今、きれいな発音で日本語の歌を美しく歌えるのは、あえて挙げれば美空ひばりだと指摘され、あなたが生涯、日本の歌曲を勉強していく気持ちがあるなら教えましょうと言われました。ピアノ伴奏の学生にも、一音成仏――一つひとつの音を大切にしなさいとご指導くださいました」と、遠藤さんは懐かしそうに回想する。
 アジアの音楽を研究するようになった遠藤さんは、韓国と日本の民族音楽の比較研究をするなか、洪蘭坡のことを知った。韓国の小中学校の教科書を集めると、洪蘭坡の曲がたくさん載っていて、多くの国民から尊敬されていたからだ。北朝鮮でも有名だったが、一部の人たちからは親日派だとして批判されていることを知った。しかも彼は国立音大の卒業生である。

 「鳳仙花」の作曲者
 洪蘭坡の本名は洪永厚で、一八九七年京畿道華城市の生まれ。伝統楽器を好む父の元で育ち、バイオリンを独習した。プロテスタントの洗礼を受け、中央基督教青年会中学部在学中にアルバイトでバイオリンを購入。朝鮮正楽伝習所声楽科・器楽科を卒業し、一九一八年に日本へ渡り、東京音楽学校(今の東京藝大)予科に入った。
 在学中の一九一九年にバイオリンを質に入れて三・一運動に身を投じ、官憲に追われるようになったため学校を中退して帰国。二〇年に短編小説集『処女魂』を発表し、その前書きに載せたバイオリン独奏曲「哀愁」に、友人の金享俊が、ホウセンカに託して民族の苦難を詠った詩を付けたのが「鳳仙花」である。
 その後、一九二六年に東京高等音楽院(今の国立音大)に入学し、東京交響楽団や新交響楽団の第一バイオリン奏者を務め、二九年に卒業。作曲家、バイオリニストとして活動するようになり、『朝鮮童謡百曲集』を発行するなど、誰もが歌える近代音楽の普及に努めた。三一年に創立した朝鮮音楽家協会では常務理事に就任している。
 一九三一年にはアメリカに渡り、シカゴのシャーウッド音楽学校に入学し、三三年に帰国すると、『朝鮮歌謡作曲集』を発行。蘭坡トリオを結成し、各地で演奏会を開くようになる。三四年には京城保育学校や梨花女子専門学校の講師になり、日本ビクター京城支店の音楽主任にも就任し、同年、李大亨と結婚した。
 一九三七年には京城放送局洋楽部の責任者になるが、独立運動への関与が疑われて逮捕、三カ月間投獄され、厳しい拷問を受けた。同年、長女が誕生している。三九年には京城放送局の放送を通じてモーツアルトの交響曲「ジュピター」を演奏、韓国初の交響曲全曲演奏となる。しかし、拷問などが元で体調を崩し、四一年八月三十日、四十四歳で早逝した。
 洪蘭坡は日本統治時代に軍歌などを作成したことなどから、李明博大統領時代の二〇〇八年、民族問題研究所により親日人名辞典にリストアップされた。ちなみに韓国での「親日」は「売国奴」に等しい。しかし、遺族が親日反民族行為真相糾明委員会を提訴したことにより、二〇〇九年に発表された親日派リスト第三期からは除外されている。
 遠藤さんは、洪蘭坡が日本に協力する姿勢を見せたのは、弾圧下でも音楽活動や関係者を守るためだったのではないかという。そうしないと、音楽活動の機会や資材が断たれてしまうからだ。著書『鳳仙花』で遠藤さんは「日本と韓国の境界によって無残にも引き裂かれていった稀有な音楽的才能について、どうしても書き残しておかなくてはという強い気持ちを抱くようになった」と述べている。
 洪蘭坡を知る日本人が少ないなか、政治学者で韓国・北朝鮮とも交流の深い飯坂良明・聖学院大学学長(当時、故人)は「遠藤さんでなければ書けなかった評伝です」と高く評価し、次のような推薦状を寄せている。
 「『洪蘭坡評伝』は遠藤喜美子教授の真摯な関心とたゆまぬ努力を結実させたものでありまして、しかも洪蘭坡という韓国、日本と関係深い音楽家・作曲家で、日本でも必ずしも良く識られていない人物をとり上げ、その経歴、創作活動、生きざまと思想背景などを克明に調べ上げた労作であります。この著作は遠藤教授の学問的背景と音楽家としての経歴をもってしてはじめてまとめうるユニークな作品であり、韓日の文化的交流と総合理解に大きな貢献を果たすものと信じております」

 胡桃の固い殻を割る
 今年は洪蘭坡の生誕百二十年に当たり、蘭坡記念音楽館がある檀国大学校では四月十日、記念コンサートが開催され、唯一の日本人として招かれた遠藤さんは、韓国語で「鳳仙花」を歌った。これに合わせ、遠藤さんの『洪蘭坡評伝』も同大出版部から翻訳出版された。
 遠藤さんによると、同書の韓国語訳の話は何度もあったが、なかなか決まらなかったという。洪蘭坡は親日派だという韓国での批判が障害になったのである。韓国のマスコミにも何度かインタビューされたが、報道されることはなかった。
 声楽家で指揮者でもある張理事長は「依然として親日は難題として残っています。だからこそ、わが大学がもう一度、力を出してみようと思ったのです。檀国大学の宝である学生たちに、貴い胡桃の味を味わわせるためには、胡桃の固い殻を割らねばならず、その役割を学校がすべきだと思います。この作業が檀国大学開校七十周年と洪蘭坡先生誕生百二十周年に合わせて進められることをさらに嬉しく考えます」と挨拶している。
 蘭坡記念音楽館が設立されたのは一九八二年で、音楽科を新設した同大に演奏できるホールを設けるに際し、韓国近代音楽の先駆者である洪蘭坡の名前を借りたのである。未亡人の李大亨夫人は夫の遺品を同大に寄贈した。その中には、洪蘭坡がアメリカ留学の際、持参したバイオリンもあり、ケースには乗船した旅客船とホノルルで泊ったホテルのステッカーが残っており、彼の手の温もりが生々しく感じられるという。
 張理事長は、洪蘭坡の記念館にするか、彼と国立音大で同期だった安益泰(アン・イクテ)の記念館にするか考えた末、前者に決めたという。後者は韓国国歌「愛国歌」の作曲者で、スペイン在住のヨーロッパで有名な指揮者である。
 今回の訪日で、張理事長ら一行は国立音大を表敬訪問する。国立音大の前身は東京高等音楽学院で、大正十五年に新宿区四谷に開校し、同年、国立に移転、昭和二十二年に国立音楽学校に校名を改称し、二十五年に国立音楽大学になった。
 東京高等音楽学院はスウェーデンボルグ派の日本人最初の牧師・渡邊敢(いさむ)がアメリカで集めた寄付金をもとに設立し、初代学長に就任した。渡邊はコスモポリタン的な教育者で、朝鮮出身で藝大中退の洪蘭坡も分け隔てなく受け入れたのであろう。

 音楽は生きる証し
 戦後、地元の福岡女子大に入った遠藤さんは、昭和二十四年の第一回学生音楽コンクールに出場し、東京から来た審査員に、音楽をやりたいのなら東京に出てきなさいと言われた。卒業後、女性教育の先駆者である中村ハルが創立した中村学園の家政科の教員になったが、遠藤さんが音楽の道に進みたいと言うと、中村ハルに教員をやめて勉強するように言われ、半年で学園を去る。
 東京藝大を目指し受験勉強しながら、東京と福岡を往復するようになった遠藤さん。ところが当時、藝大の受験資格は二十五歳までだったのであきらめ、一旦、福岡市教育委員会に就職し、市立当仁小学校の音楽専科教諭を四年間務めた。
 その後、再び上京した遠藤さんは東京・昭島市の啓明学園の教員になり、同時に国立音大の三年生の編入試験に合格し、日本の音楽を習うため山田耕筰に弟子入りしたのである。
 洪蘭坡の評伝を書くため、遠藤さんは何度も韓国を訪れ、フィールドワークをした。李大亨夫人によると、洪蘭坡はクリスチャンの使命として、民族音楽を通して韓国の音楽教育のシステムを作ろうとしていたという。日本の歌や賛美歌からではなく、韓国独自の歌を作ったのが彼の業績で、それを調べるため遠藤さんは教会の古い書類も調べた。
 「洪蘭坡が軍歌を作曲したりしたのは、教会員や若い音楽家たちを守るためだと思います。反対していたら迫害され、音楽活動ができないばかりか、暮らしていけなくなりますから。そんな風に書いたので、韓国の人たちに喜ばれました。韓国人だとは言えない、日本人だから言えることですから。そんな大変な時代に、韓国の子供たちのために二百を超える曲を作ったのです。
 夫人によると、亡くなる直前、洪蘭坡は朝鮮の伝統的な白い死に装束ではなく、指揮者のタキシードを着せてくれるよう頼んだそうです。そして、あなたはこれからもイエス・キリストを信じて生きていきなさいというのが遺言でした。洪蘭坡の信仰の力を感じます」
 三、四歳の頃から日曜学校でオルガンに合わせて歌を歌い、近所の福岡女学院のアメリカ人宣教師の家庭では、娘のバイオリンに合わせてピアノでメロディーを弾くなど、遠藤さんの人生は音楽と共にあった。
 「音楽は私にとって生きている証し、歌うことは私の使命です」と言う遠藤さん。同じ思いを洪蘭坡に発見したことが、彼の正確な評伝執筆の情熱を支えたのだろう。
 今年、卒寿の遠藤さん。若々しい歌声の秘訣をよく聞かれるという。そんな時、次のように答えている。
 「夢や希望を失わないことです。目指す山の頂は遠くても、それを見失わず、頂上に向かって努力し続けることです。決してあきらめないで……」

 えんどう・きみこ 昭和2年、福岡県生まれ。声楽家。音楽療法士。福岡県立女子専門学校家政科(現・福岡女子大学)卒業。国立音楽大学声楽科卒業。盛岡大学教授、同大付属厨川幼稚園長、聖学院大学児童学科長などを歴任。東京・国立市の「高齢者福祉を考える会」代表。

写真説明 遠藤喜美子さん『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』とその韓国語版 ソウルにある洪蘭坡の自宅KBS本社玄関前にある洪蘭坡の銅像と遠藤さん


くにたちふれあいコンサート 東京・国立市
日韓親善友好の音楽の調べ
 国立市の高齢者福祉を考える会(遠藤喜美子代表)が主催するくにたちふれあいコンサートの第十四回が十一月十七日、日韓親善友好の音楽の調べと題し、くにたち市民芸術小ホールで開催された。出演したのは声楽家の遠藤さんをはじめ、ヴァイオリニストの尾張拓登さん、韓国・檀国大学校音楽大学声楽科長の李英華さん、同器楽科教授の崔綸牙さん、ピアニストの宮本あんりさん。永見理夫国立市長も参加し、「きょうは韓国と日本の友好を音楽が紡いでくれる素敵な日」と挨拶した。聴衆は地元の高齢者など約三百人。
 檀国大学の音楽家が来日出演したのは、遠藤さんが二〇〇二年に出した『鳳仙花 評伝・洪蘭坡』(文芸社)の縁。洪蘭坡(ホン・ナンパ)は韓国で広く知られる「鳳仙花」「ふるさとの春」などを作曲し、韓国近代歌曲の父とされる作曲家で、日本の滝廉太郎や山田耕筰のような人。東洋の音楽を研究する中、洪蘭坡を知り、しかも遠藤さんと同じ国立音大の卒業生だったことから、彼の評伝に取り組んだ。

 今年は洪蘭坡の生誕百二十年で、蘭坡記念音楽館がある檀国大学校では四月十日、記念コンサートが開催され、唯一の日本人として招かれた遠藤さんは、韓国語で「鳳仙花」を歌い、遠藤さんの『洪蘭坡評伝』も同大日文科教授の宋貴英さんの訳で、同大出版部から出版された。
 演奏は、尾張さんのヴァイオリンで、ファガニーニ作曲の「カンタービレ」で始まり、李さんが伸びやかなテノールでグノーの「アヴェマリア」、イタリア歌曲の「忘れな草」を歌い、ソプラノの遠藤さんが日本の「初恋」と「時雨に寄する抒情」を八十九歳とは思えない声で披露した。

 そして、遠藤さんと李さんは洪蘭坡の「鳳仙花」の二重唱を披露して聴衆の大きな拍手を浴び、最後は洪蘭坡の「故郷の春」と日本の「ふるさと」を全員で歌い幕を閉じた。
 体調を崩し来日できなかった同大の張忠植理事長に代わり一行の代表を務めた宋教授は、舞台から次のように挨拶した。
 「洪蘭坡先生の童謡は百を超え、彼の歌が好きでよく歌っていることと、彼がいまだに親日派として非難されていることとは全く関係ないとばかり思っていましたし、そもそもそういうことに関わりたくありませんでした。私たちは無関心のまま歳月を送り続けてきたのです。過去の暗い歴史にまみれている韓国と日本、その時代を生きてきた天才音楽家の洪蘭坡の運命に共感し、親日音楽家という不名誉をただす努力を惜しまない遠藤先生に心から感謝し、敬意を表します」

 張忠植理事長はプログラムに寄せた祝辞で、遠藤さんが洪蘭坡の研究をしていた当時、韓国では「親日派」という言葉に敏感で、檀国大学の洪蘭坡記念館に来る人も少なかったことや、遠藤さんにインタビュー取材しながら、マスコミはそれを報道しなかったことに触れ、「韓国の近代音楽の祖というべき洪蘭坡先生の生涯と彼の音楽を話すまで、実に長い歳月が費やされました。私がここに立っていること、感無量としか言いようがありません」と述べている。張理事長は声楽家で指揮者としても活躍し、大韓赤十字社総裁、世宗文化会館理事長も務めている韓国音楽界の重鎮。九十歳近い遠藤さんに頑張っているので、次の機会にはぜひ来日したいとのメッセージを宋教授に託した。

 閉会後、ホールで交流会が開かれ、永見市長はじめ西東京日韓親善協会の三田敏哉会長、外務大臣政務官の時には日韓親善に尽力した小田原潔衆院議員らも参加し、来場者と親睦を深めていた。
エトキ 「鳳仙花」を二重唱する李英華さんと遠藤喜美子さん=11月17日、東京・国立市のくにたち市民芸術小ホール