町田宗鳳先生と小松昭夫社長    新神戸にて


    Voice 小松/町田2012.3.16 新神戸

   町田宗鳳師のサイト   ラジオ深夜便 2012年2月1日『愚かさの再発見@』
                                      2012年2月2日『愚かさの再発見A』

町田宗鳳(まちだ そうほう師のプロフィール

町田宗鳳 1950年京都市生まれ。14歳で出家。以来20年間、京都の臨済宗大徳寺で修行。34歳のとき寺を離れ、渡米。ハーバード大学神学部で神学修士号およびペンシルバニア大学東洋学部で博士号を得る。プリンストン大学助教授、国立シンガポール大学准教授、東京外国語大学教授を経て、現在は広島大学大学院総合科学研究科教授、国際教養大学客員教授、広島大学環境平和学プロジェクト研究センター所長、平和希求委員会委員、オスロ国際平和研究所客員研究員(ノルウェー)、日本宗教学会評議員。専攻は、比較宗教学、比較文明論。

著書:『小説・法然の涙』、『愚者の知恵』、『なぜ宗教は平和を妨げるのか』、『法然対明恵』、『山の霊力』(以上、講談社)、
『生きてるだけでいいんだよ』(集英社)など多数。
NHK教育テレビ『こころの時代』に年間出演。また全国各地で一般市民向け座談会「風の集い」および「健康断食」を開催している。詳しくは「町田宗鳳」のホームページ参照。

全国七都市の「風の集い」で、超宗派的なボイスメディテーションを実践しています。「ありがとう」の言霊は、宗教や民族の違いを超えて、人間の魂に浸透していきます。また隔月に、週末を利用した「健康断食」も開催しています。心と体の大掃除に効果が大きく、その結果、深い宗教体験に至る人もいます。

「愚者の知恵」

町田宗鳳 広島大学環境平和学プロジェクト研究センター所長

 トルストイの名作
 初めに拙著『愚者の知恵』の「まえがき」の一部を紹介します。

 「ロシアの文豪トルストイの名作のひとつに『イワンの馬鹿』をはじめとする小さな民話
を綴った作品シリーズがありますが、その内容は幾度読み返しても、飽きがこないほど含蓄
があります。 トルストイ自身にとっても、自分に歴史的な名声をもたらすことになった
『戦争と平和』や『アンナ・カレーニナ』などの大作よりも、これらのごく短い民話のほう
がはるかに価値のあるものだったのです。 人も羨むような名声と財産を手に入れてから、
逆に人生の空しさに苦しむようになったトルストイは、ようやく五十代後半になって、それ
まで拒絶していた神への信仰に生きがいを見出すようになりました。その信仰の中で見出し
たものを、トルストイは誰でもわかる民話の形式で表現しようとしたのです。

 実際に信仰に光を見出してからのトルストイは、まるで『イワンの馬鹿』のように野良着
を身につけ、畑を耕し、肉食を避け、粗食に甘んじるような生活をはじめていたのです。 
そのようなトルストイは、若いときに無頼漢でもあった自分が、知らず知らずのうちに特権
階級の仲間入りをしていることを深く恥じ、つねに自分の領地と著作権から入る収入の一切
を放棄することを望んでいました。 しかし、それが周囲の反対でできないことに、非常に
苦しみます。そして、ついに八十二歳という老齢で家出をし、列車の中で肺炎にかかったま
ま、小さな駅の構内で亡くなったのでした。

 わたしは、それを惨めな死とは思いません。彼の魂がそのような死を選んだのです。きっ
と彼の魂は天使に導かれて、一直線に天国へと昇っていったはずです。 そしてそのような
トルストイの魂が、今も世界の人々に読んでほしいと思っている作品があるのなら、それは
まちがいなく本書でも取り上げた民話の数々でしょう。 

 人間がこの世に生きるということは、並大抵のことではありません。精神的にも肉体的に
も、多くの苦痛が伴います。ときに自らの命を殺めたくなるほどの場面もあります。 それ
ほど厳しい人の世ですが、かといって、いつも悲愴な顔をして暮らすというのは、感心しま
せん。つねに心に重くのしかかっていることがあるというのは、エゴがあるからです。エゴ
というのは、たとえてみれば、腎臓などに結石があるようなものです。結石があれば、七転
八倒の強い痛みを招きます。そして放置すれば、命取りになります。

 エゴというのは、それほど恐ろしいものなのです。人生が辛いというのも、じつのところ、
人生そのものに原因があるのではなく、エゴが人生を辛くしているのです。しかし、エゴが
あらゆる不幸の原因とわかっていても、そのエゴを捨てることができないのが、わたしたち
人間です。救いがたいまでの凡夫の愚かさです。

 そんな愚かなわたしたちにも、一歩だけ神に近づける方法が、ひとつあります。それが何
かといえば、自分の愚かさに気づくことです。それに気づいているのと、気づいていないの
とでは、大きなちがいがあります。 なぜなら、人間が他者に見せるあらゆる傲慢は、強烈
なエゴを持ちながら、それを自覚できないままでいる自分に対する無知に原因しているから
です。自分に対して無知な人間こそが、善人のふりをしながら、他者に対して、もっとも冷
酷なことをやってのけるのです。 『イワンの馬鹿』とそれに連なるトルストイの作品は、
どこまでもエゴイスティックなわたしたち自身の姿を、ありありと映し出してくれる心の鏡
だと言えます。ですから、この本は先を急がずに、しみじみとゆっくり読んでください。そ
うすれば、鏡に映る自分の姿が、やがてはっきりと見えてくるはずです」

 私自身が非常にエゴの強い人間ですから、とても変則的な人生を歩んできました。禅僧に
なる前は、小学生から中学生にかけて京都の教会に通い、日曜日ごとにお祈りをし、聖書の
勉強をしていました。ですから、キリスト教にも非常に親近感があります。二十年も禅寺で
過ごしたのに、わざわざアメリカの大学の神学部にいったのは、やはり子供の時に心に染み
込んでいたキリスト教を本格的に勉強してみたいと、三十を超えてから思い立ったからです。
 トルストイは八十二歳で家出しましたが、私は十四歳で家出をして大徳寺に入り、親の反
対を押し切って出家しました。そして二十一歳で大徳寺を飛び出したのは、多感な青春の時
に裕福な寺の矛盾を見せられたからです。その後、間もなく寺に戻り、本格的に修行するた
めに専門道場に入って、雲水を十年余りしました。そして三十四歳で三度目の家出をし、お
寺だけでなく日本を出てしまいました。

 振り返ると、私の人生は家出の連続です。十数年いた米国を家出して、シンガポールに行
きました。そこで三年ほど教え、五十歳になってから日本に戻りました。このように私は時
々、突飛な行動をしてしまう性格なので、トルストイの家出も身近に受け止めることができ
るのです。



  「イワンの馬鹿」(抄)  レオ・トルストイ

昔ある国に、軍人のセミョーン、布袋腹のタラース、ばかのイワンと、彼らの妹で?(お
し)のマルタの4兄弟がいた。
ある日、都会へ出ていた兄たちが実家に戻ってきて「生活に金がかかって困っているの
で、財産を分けてほしい」と父親に言った。彼らの親不孝ぶりに憤慨している父親がイ
ワンにそのことを言うと、ばかのイワンは「どうぞ、みんな二人に分けてお上げなさい」
というので父親はその通りにした。
3人の間に諍いが起きるとねらっていた悪魔は何も起こらなかったのに腹を立て、3匹の
小悪魔を使って、3人の兄弟にちょっかいを出す。権力欲の権化であるセミョーンと金銭
欲の象徴のようなタラースは小悪魔たちに酷い目に合わされるが、ばかのイワンだけは、
いくら悪魔が痛めても屈服せず、小悪魔たちを捕まえてしまう。小悪魔たちは、一振り
すると兵隊がいくらでも出る魔法の穂や揉むと金貨がいくらでも出る魔法の葉、どんな
病気にも効く木の根を出して助けを求める。イワンが小悪魔を逃がしてやるとき、「イ
エス様がお前にお恵みをくださるように」と言ったので、それ以来、小悪魔は地中深く
入り、二度と出てこなかった。

イワンは手に入れた宝で、それで戦争をしたり贅沢をしたりするわけではなく、兵隊に
は踊らせたり唄わせたりして楽しみ、金貨は女や子供にアクセサリーや玩具として与え
てしまう。無一文になった兄たちがイワンの所にかえってくると、イワンは喜んで養っ
てやったが、兄嫁たちには「こんな百姓家には住めない」と言われるので、イワンは兄
たちの住む小屋を造った。兄たちはイワンが持っている兵隊や金貨を見て「それがあれ
ば今までの失敗を取り戻せる」と考え、イワンは兄たちに要求されて兵隊や金貨を渡し
てやる。兄たちはそれを元手にして、やがて王様になった。

イワンは住んでいる国の王女が難病になったとき、小悪魔からもらった木の根で助けた
ので、王女の婿になって王様になった。しかし「体を動かさないのは性に合わない」の
で、ただ人民の先頭に立って以前と同じく畑仕事をした。イワンの妻は夫を愛していた
ので、マルタに畑仕事を習って夫を手伝うようになった。イワンの王国の掟は「働いて
手に胼胝(たこ)がある者だけ、食べる権利がある。手に胼胝のないものは、そのお余り
を食べよ」と言うことだけだった。

ある日、小悪魔を倒された大悪魔は、人間に化けて兄弟たちの所にやってくる。セミョー
ンは将軍に化けた悪魔に騙されて戦争をして、タラースは商人に化けた悪魔に騙されて
財産を巻き上げられて、再び無一文になる。最後に大悪魔はイワンを破滅させるために
将軍に化けて軍隊を持つように仕向けるが、イワンの国では人民は皆ばかで、ただ働く
だけなので悪魔に騙されない。今度は商人に化けて金貨をばらまくが、イワンの国では
みんな衣食住は満ち足りており、金を見ても誰も欲しがらない。そればかりか、悪魔は
金で家を建てることができず、食べ物を買えないので残り物しか食べられず、逆に困窮
して行く。

しまいに悪魔は「手で働くより、頭を使って働けば楽をして儲けることができる」と王
や人民に演説するが、誰も悪魔を相手にしなかった。その日も悪魔は、高い櫓の上で、
頭で働くことの意義を演説していたが、とうとう力尽きて、頭でとんとんと梯子を一段
一段たたきながら地上に落ちた。ばかのイワンはそれを見て、「頭で働くとは、このこ
とか。これでは頭に胼胝よりも大きな瘤ができるだろう。どんな仕事ができたか、見て
やろう」と悪魔の所にやってくるが、ただ地が裂けて、悪魔は穴に吸い込まれてしまっ
ただけだった。極めて純朴愚直な男ではあるが最後には幸運を手にすることが

* イワン:極めて純朴愚直な男ではあるが最後には幸運を手にする。
* 全文: http://www.aozora.gr.jp/cards/000361/files/42941_15672.html


                町田師HP「折折のことば」より



 
十牛の図

 中国に禅宗の修行の段階を示す「十牛の図」(廓庵禅師作)があります。十の絵があ
り、最初は「尋牛(じんぎゅう)」で若者が牛を尋ね求めています。次は第二図の「見
跡」で牛の足跡を見つけます。牛は「悟り」や「仏法」を意味しています。最初は五里
霧中で歩き回っていたのが、何年かすると方向性が見えてくる。

 その足跡をたどって行くと、第三図の「見牛」で牛を見つけます。悟りは架空の話で
はなく、実在するものだと分かるのです。クリスチャンにとっては神の実在を確信する
ことでしょうか。それまでには相当な迷いがあります。本当にこの道でいいのか、この
先に牛はいるのか、葛藤しながら歩いていくのです。牛を発見してやっと一つの自信を
得ます。悟りはあった、自分のやってきたことは間違いではなかったと。スポーツや音
楽でも同じですが、一つの道に打ち込んでいると、そのような体験をします。 第四図
は「得牛」で、牛を手に入れます。宗教体験を自分のものとするわけです。牛が逃げな
いように縄をつかんでいるので、縄がピーンと張っています。悟りが消えないよう必死
なのです。ビジネスですと、やっと利潤を生み始め、これから拡大しようとするが、も
しかするとこけるかもしれないという不安もあり、緊張しています。

 第五図は「牧牛」で、もう牛を飼いならして、自分と牛との間に非常にいい関係が成
立しています。組織と指導者に置き換えると、それまで緊張関係にあったものが、互い
に信頼関係が生まれ、みんなが自然に付いてくるという安心の境地です。 第六図は
「騎牛帰家」で、手綱を持たなくても、牛の背に乗り、篠笛を吹いて、楽しく家に帰る
ことができます。家への帰り道を牛が知っているので、お任せでいいのです。何事も、
ここまで行けば万々歳です。事業も軌道に乗ると、それほど無理をしなくても、社員を
信頼しているうちに、おのずと回転するようになります。

 第七図は「忘牛存人」では、絵から牛が消えています。家に連れて帰ってくれたので
牛が不要になったのです。私は宗教はここから始まると思っています。牛がいる間は、
悟りとは何か、神とは何かと振り回されています。自分と牛が一つになると、周囲の条
件に邪魔されることなく、平和な境地でいることができます。神や仏の教えを声高に言っ
ている間は、まだその人は宗教的境地に達していません。家で昼寝をしていても、そこ
に神仏を感じさせるのが本物でしょう。

 第八図は「人牛倶忘」で、人も牛もいない空の境地です。これを体験しないと、宗教
を理解したことにはなりません。儀礼や経典、信仰について、あれこれ語っているうち
は、まだ生臭いのです。 そこを潜り抜けると、第九図の「返本還源」で、現実がその
まま神仏の世界として見えてきます。第一図でも見えているのですが、まだ心に曇りが
あった。それが、ここで見る自然は光に満ちて輝いています。もちろん、その段階でも
人間は悩むことがあります。病気になったり、借金を抱えたり、家族が問題を起こした
りしますから、悩みは死ぬまで絶えません。しかし、その風景を、否定的なものではな
く、肯定的に捉えられる自分になっているはずです。同じ人生の風景でも、煩悩まみれ
のときと、一度神仏に出会ってからのときとでは、全く違って見えるはずです。

 最終的には第十図の「入廛垂手(にってんすいしゅ)」で、偉いのか偉くないのか、
賢者なのか愚者なのか分からない。人々の中に紛れ込んで、全く目立たないが、どこと
なく芳しい香りを放っています。これが禅宗の修行の究極の境地で、痴聖人と呼ばれる
人格です。私の言う「愚者の知恵」ですが、この境地に至るのは、並大抵ではありませ
ん。 大学院で博士号を取った、会社の社長になったとうプライドのあるうちは、まだ
大きな牛に振り回されている証拠です。そういうものをすべて忘れ去り、泰然自若とし
ている。馬鹿なのか賢いのか分からないという境地に至ったのが「愚者の知恵」です。
それがまさに近代文明が求めているものです。
                               町田氏講演「愚者の智慧」より



 
                     十牛図
 十牛図の前半
十牛図、後半
 
 禅の老師曰く「己を知れ」という。座禅しながら己自身について考えよという。自分がその生涯で出来る
こと、社会のなかで自分の使命はなんであるのかをよく見極めろということである。見極めたらそのとうりに
生きて見ろという。
禅の修行を現したものの一つに「十牛図」というのがある。己の中の真の自分を牛に見立てた漫画のような
もので、十枚の絵から成り立っている。まず最初は牛を探しに出かける。そして牛の足跡を見つける。
次に牛の一部、頭を見つける。遂に牛全体をみつけそれを捕らえる。捕らえて牛を飼い慣らす。ここまでが
前半である。各段階が一つの悟りになっており、段階的に真の自分を見つけることが修行を進めて行くこと
になっている。
六番目の絵では牛の背中にのっかて笛なんぞを吹きながら家に帰えってゆく。まあ完全に牛を自分のもの
にしたといったところであろう。ここまでは理解できるのだが、それからが難しい。
七番目、家に帰ってきてなにもかもほおりだしてポケッとしている。牛もいない。そして八番目の絵は何も
描かれていない。九番目の絵は花咲く木と河が描かれ、最後の絵には荷物をかついで山から下りてくる
人が描かれている。
禅では大悟と小悟があり、小悟は数を知れずという。小さな悟り、まあ閃きというか理解というかそんな
ものは数多くあるといったところである。大悟というのはそんなに数はなく、たとえばニュートンが林檎の
実が落ちるのを見て万有引力を悟った、このようなものである。五番目までは小悟が続き、六番目では
少なくとも一回の大悟はしている。
それでは七番目は何を現しているのだろうか。やっと見つけた真の自分と見つけようと努力していた
自分が渾然と一体となり、最初に戻ったようになる。例えば病気になれば(修行すれば)普段気づか
なかった健康(真の自分、牛)がよくわかる。しかし病気が治れば(大悟すれば)もとの健康な体に
なる。しかし健康というものを良く知った自分になっている。見た目には以前の自分といっしょだが
中身が違うというところか。
さて八番目はどうか。なにも描かれていない。消滅してしまっているのか。有るのだが見えないだけ
なのか。九番目には今までとは無関係の絵が出てくることから推測すれば、八番目は有るのだが
見えない、と解釈すべきだろう。例えば芋虫が蝶になるとき蛹という経過をたどる。蛹は芋虫でも
なく蝶でもない。蛹のある時期には構造のない単なる液体になるときがある。まさにこれが八番目
の状態ではないか。メタモルフィックな変化が人の心身に起こる。人格の変化か?空の悟りか?
そして九番目、花咲く木と河、まさに自然そのものである。芋虫が蝶になったのである。ヒトは
自然の一部であり、自然はヒトの一部である。ヒトと自然の根元は同じである。これを大悟する
ことであろう。極言すればヒトの設計図である遺伝子はあらゆる生物の遺伝子と共通項を持ち、
さらにその遺伝子を構成する分子や原子は水や岩の分子や原子に含まれており、両者に共通
項があることを真に理解することであろう。こうなればヒトの成り立ちや、自然の成り立ちが
瞬時にして理解できるはずである。
ここまで解ってしまえばもはやこわいものはない。自分一人の修行を卒業し、人々の悩みを解決
しに町へ出てゆこう。これが十番目である。
とまあ理屈ではわかってもこれを体験的にわからねばならない。各自各様の考え方がある
だろうが、このように解釈して坐禅をする。そうするとそれなりの小悟が得られるというものである。
以下に十牛図を易しく示したもの。

第ー図 尋牛

     

第二図 見跡

第三図 見牛

第四図 得牛

第五図 牧牛

第六図 騎牛帰家

第七図 忘牛存人

第八図 人牛倶忘

第九図 返本還元

第十図 入廛垂手


1