「芸術」の美学   Life-Heart Message. 2008.02.11.

ドイツの哲学者マックス・シェーラーは、芸術の働きについての論説の中で、『芸術の目的は、おそらく余分な、すでに与えられたものを再生することではなく、一時的であり、従って当然、他の人々には全く興味のない主観的な空想の、純粋な遊びの中で何かをつくることではなく、外部世界と魂の全体に押し入り、それまで規則と慣習が隠していた内なる客観的実体を見、それを伝達する事である。』と言った。芸術の女神と言う主題は大変古く、最古の時代以来、人間の想像の中にあった大地の母という考えに見出される。大地の母は生と死の環の神秘と、世界の生命力を内包した自然の擬人化であった。無数の女神がそれから発生し、無数の神話と信仰に現れるのである。それらは性的、生殖的、母性的側面から、しめやかで霊的な側面までのあいだの多数の相を象徴している。女神の絵と彫刻のイメージのモデルとなったのが常に女性であった。

歴史的に見ると紀元前約6500年から3500年の間に、ナイル河の土で作られた先史時エジプトの土偶の女神がある。形と姿勢が大地の母なる女神の性的、生殖的な面を暗示しているようで、何かの儀式の際に使われたものであろう。

原始文化では芸術は人生のためのものであった。古代ギリシア人が彫刻で愛の女神アフロデイテを創造したとき、彼らはアフロデイテを個人、人がそれを認める特定の人にすることによって、女性というものの根源的で一般化した考えを人間化したのであった。この知的、精神的に洗練された美しさをもっていたにもかかわらず、アフロデイテは愛の行為の女神に止まったのである。このギリシアの女神の彫刻のイメージは、主題として神と同じ形で人間の姿を借りているのに対して、エジプトの粘土の女神は、粗野で原始的な半獣半女という生物である。だがこの土偶の方はある観念よりも、特定の人間の経験を超えて、女性の神秘的で不思議な力を得ている。アフロデイテの理性的で優雅な美しい彫刻が人間的になったとき、その神秘の力の大部分が失われてしまったことがわかる。

ウイリアム・ブレイクは『ギリシアの彫刻はすべて死すべき消滅しゆく視覚器官に対する精神的存在、不滅な神の表象である。しかもこれらは固い大理石の中に表わされ、組み立てられる。』と言ったが、エジプトの土偶の女神ときわめて対象的である。無名のエジプト人の作った女神は、自然を全体として見る本能、人生についての様々な出来事を一つのイメージに結びつける本能、そして人間それ自身に関する限り、神話的あるいは精神的な問題を、深く、神秘的で未解決のものとして残しておく本能があった。モンドリアンは言った、『芸術は、直感がますます意識的になり、本能がますます浄化されることを示す。・・・直感は啓発され、純粋な思考とつながる。そしてそれらが一緒になって、単なる頭脳ではなく、計算する代わりに感じ、考える知性となる。それは芸術と人生の両面において独創的である』

私たちの想像に翼を与えるのは、精神の無意識の深奥の働きであるのだ!!

未来創庵 一色 宏


「芸術」の美学

「人間の心の深奥へ光を送ること―――これが芸術家の使命である」とシューマンは言った。ロマン・ロランは「芸術は“生命を百倍にし、強化し、より大きくよりよくすることである」と言う。芸術作品は、芸術家という一人の個人によって生み出されたものであっても、その個人を越える射程を持っている。芸術家個人が何を、いかに表現したかということが問題なのではなく、私たちが「その作品から何を、いかに受け取るかが問題なのである。」とアンドレ・マルローは言った。

かれの問題意識は、芸術作品を「価値づける文明の状態」にあった。彼の芸術論は、当然に文明論になった。マルローの世界においては、ゴヤの絵画も、シュメールの彫像や中世の浮き彫と同じように無名の作家のものであっても構わない。アフリカの黒人彫刻が彼の興味を惹くのは、それが現状の私たちに何かを語りかけて来るからである。この何かを語りかけて来るものがすなわち「芸術」であって、それ以外のものは彼の興味の対象ではなかった。「西洋の没落」の預言的思想の影響を受けていたがある手紙のなかに「エジプトの彫刻がエジプト人に語っていた言葉は、エジプト文化とともに失われてしまって、彫像たちはもはや永遠にその言葉を語らない。」と言ったシュペングラーは、「きわめて正しかったのです」と述べている。しかしそれにすぐ続けて、「しかしながら、それにもかかわらずその彫像たちがわれわれに語りかけていること。そしてわれわれはそれに耳を傾けざるを得ないということ。それを忘れた点で彼は誤っていたのです」と断定している。かつて神であり、信仰の中心であったものが、現代では彫刻となり、ギリシア人が女神として信仰していたアフロディテは、今日では彫像として甦って来る。実体は同じであっても、その意味は時代とともに変わる。これが、彼が「神々の変貌(メタモルフォーズ)」と呼んだ。神々は「変貌」しても、なおわれわれに語りかける。それが彼の言う「空想の美術館」である。

 現代は、地球的な規模で、さまざまな文明が「芸術」を通じて、対話を交わしている。まさに現代は、諸文明の出会いの時代であると言える。裏返して言えば、文明の出会いは、つまり、人間の連帯性は、今や「芸術」に賭けられているということである。マルローは「死が悲劇的であるのは、それが人生を運命に変えてしまうからだ」と言った。その「運命」に対抗するために、彼は人間の連帯性を求めた。「行動の人」マルローの「行動」はまさにそのためのものであった。ユネスコにおける「人間と芸術文化」の講演で、彼は、「人間は、かつて個人によって腐敗させられたように、今や集団によって腐敗させられている」と語っている。運命に対抗し得るものは、もはや「芸術」しかない。そして、過去の神々を地球的な規模において甦らせた現代こそ、はじめて、人間がその「反運命」としての芸術に明確な自覚を持った時代になるのである。彼はフランス国会の演説で「文化とは、死のなかにおいてもなお生命であるもの」と述べた。「空想の美術館」は、マルロー個人の祈りにも似たものであった。トルストイは言った。「芸術とは、人間が心の中に高まる感情を最高、最善のものへと移行させる人間活動である」と・・・・ 
                                 未来創庵  一色 宏 

「芸術」の美学[]Life-Heart Message 2008.09.29.   

 いかなる文化現象の中でも、芸術は美が大きな役割を占めている。美というとらえにくい理念が、芸術においては、物質現象の中に輝き出ているため、その理念を考えるには、芸術が最もわかりやすい手がかりになるからである。還元すれば、芸術においてこそ、人間精神の求める美の理念が人間の営みを介して、最も具体的に最も密度高く結晶されていると考えられる。

 古代ギリシャでは、芸術を表す言葉として「テクネー」今日のテクニック(技術の原語)をあて、特に人間の力、その真の意味で或る価値を実現しうる創造的な力を芸術であるとみて、ギリシャ人はポイエーシス(今日のポエジー)詩の原語。すなわち創造という言葉をこれに当てようとした。ポイエーシスとは、単なる実用的効用とは異なった美的な価値の輝きを放射する独自の完結した物を作る能力のことであり、その意味で単なる技術から区別されている。

哲学者でプラトンは、詩人すなわち創造する人とは、神韻の世界から人語の世界への通訳、伝達者であるという。芸術における創造とは、彼によれば、神の想いであるイデアを、神から与えられる霊感によって直観し、これを凡人に体験可能な現象形態に翻訳する操作である。『人間におけるすべての偉大な業績は、このような狂気にもとづく。この事実を忘れ、単に技法をもってミユ―ズの門を叩こうとする者が来たとしても、女神は門戸を閉ざすであろう』という。このプラトンの言葉は、芸術が単に凡人の憧れや練習によって成立するものではなく、その領域における天才の天衣無縫の飛翔によるということ、また、芸術が人間固有の認識を越えて、神的な秘密に接しなければ成立しないというこの事を、ギリシャ民族が如何に美を愛で、そこに至高の価値を置いていたかの証左であり、人間の身体美を美的世界の中心に位置せしめ、そこから質量ともに美術史上他の追随を許さぬ人体彫刻を造形して、『高貴なる単純と静かなる偉大』と讃えた古典美を確立したのであった。

美について考察することは、芸術について考えるに止まらず、人間の最高の徳について考察することにほかならない。このことを見のがしてはならない。真の芸術は、存在するものに対する深い人格的愛がなければ成立しない。ありとあらゆるもののよさを発見しようとする態度、そこには世界のあらゆるものに対する精神の愛が作用していると言える。基本的にははぐくみの心としての愛が芸術の源なのである。なぜならば、愛こそが美しいからなのである。形に現われた美しさは、また心の美しさ、すなわち人格の美に根源的に繫がっているからである。芸術とは、人間の精神によい種子を植えつけるものである。

・・・プラトンは言った。『自己の哲学を一口に示すと“美の教え”であると・・・・・・』・・・

未来創庵 一色 宏

『音楽』の美学 Life-Heart Message.2008.01.21.

 古代の人間にとって、音楽とは魔術であった。そして、魔術は、すべての事柄を解決する特効薬でもあった。すなわち、この音楽という魔術を使えば、病気を治すこともできるし、生命の誕生から死に至るすべての儀式を取り仕切るものであった。人間の生活のすべてを支配した『音楽』は、社会の権威でもあり『幸せ』でもあったのである。歌の目的は、神への祈り、自然との対話、悪霊を追い払う、戦闘意欲を鼓舞する、自己の心情を吐露する。病気を治す、存在の誇示、愛の告白・・・神への祈り(賛美歌)、心の吐露・愛の告白(イタリア・オペラ)戦闘意欲は(マーチ)に、病気を治す(音楽療法)に、存在の誇示は(カラオケ)なのかもしれない。

音楽文化人類学者クルト・ザックスによれば、人間は幸せな状況だから歌うだけではなく、ある種、絶望の淵にあるような状況の方が『ウタを歌いたくなる』。たとえば、アメリカの黒人奴隷達が歌う、黒人霊歌やブルースなど、何としてでも未来へ明るい希望を捨てまいとする願望がそうさせたのではなかろうか。詩人ハイネは言った。『音楽というものは、不思議なものだ。それはほとんど、奇跡と言ってもいいだろう。なぜなら、音楽は、思考と現象のあいだ。そして、精神と事物のあいだにあって、双方を漠然と仲介する存在だからだ。音楽とは何なのか、結局私たちにはわからないのだ。』と・・・

『音楽を聴くとき、危険を感じることなどない。傷つくこともなければ、敵もいない。その時わたしは時間を越え、遠い過去とも、そして現在ともつながっているのだ。』といったのは、ヘンリー・デビット・ソローである。有名な『ボレロ』を作曲したラヴェルは、晩年、脳の病気で廃人同然の生活を送っていた。失語症、読み書きの能力を失い、ピアノは片手でしか弾くことができなかった。しかし、暗譜した曲は歌ったり演奏することはできた。ベートーヴェンも、晩年聴力を失っていたが、心の中に『音楽』は最後まで失ってはいなかった。「ラヴェルの記憶の中に、ベートーヴェンの記憶の中に音楽は響きわたっていた」のである。その記憶も、その人が経験的に蓄積した記憶だけでなく、遺伝情報や環境情報として先祖から受け継いだものまで含まれ、また地球上で生活してきた『人類としての記憶』も含まれているはずであろう。

五感を通して刺激や感動を人間は得るのは、その先にある人間としての『幸福感』を得ようとするためである。人間が創造したものはその現実的な使い方が何であれそのそもそもの目的はすべて人間が自分自身を幸福に導くためにあったとも言える。果てのある限定された『生』という時間と空間の中に、音楽は、恐れの「異空間」にも喜びの「異空間」へも自由に行き来することのできるスイッチかもしれない。『歌うことは、愛し、認めること。飛び立ち舞い上がり、聴く人の心のなかにスッと入りこむこと。歌は語る、人生とは生きるためにあること、愛もそこにあること、何も約束などないということを、でも、美もそこにあり、それを探し求め、見つけ出さなければならないということを。』・・・ジョーン・バエズ

未来創庵  一色 宏

【参考資料】

新しい芸術論の試み⇒こちら