お婆ちゃん
もうすぐ3回忌ですね。今日明け方散歩しながら、おばあちゃんに手紙を書きたいなと思い、書いてみました。

お元気ですか。私の住むウクライナは春真っ盛りです。
おばあちゃんは時空を超越した世界でお過ごしなので、この自然の美しさを私よりも先に知っておられることと思います。
晴れ渡った大空を自由に飛び回る美しい鳥たち、
浮かぶ雲のごとくまっしろな白い花を めいいっぱい咲かせたりんごや栗の木、足元にはタンポポが可愛らしい花の絨毯を敷いて、喜ばしい春のお出迎え。こんな景色を眺めながら、おばあちゃんの住まわれる世界に想いを馳せる今日この頃です。

おばあちゃんの傍に居たときには、私の心は幼くて理解できませんでしたが、成長するにつれ、おば
あちゃんは一人の人間として円満な方であったと尊敬の心が深まります。
姉やスヴェトラーナ先生か見つめるおばあちゃんは教養と実行力のある、自立した女性であり、
母や母の兄弟が語ってくれたおばあちゃんは博愛の心を持たれた方であり、父が慕うおばあちゃんは
母として、姉として、妻として立派であり、家族と氏族と世界を愛した方でありました。

いま私は恵まれて、私をおばあちゃんの使者として受け止めてくださる人生の恩師に出会い、使命感を
感じながら日々生活させていただいています。
これからも、いつも両親が言うように、私のできる分野で“世のため、人のために”心を尽くして生き、
おばあちゃんの孫娘として誇りを持ち、おばあちゃんが生きていらしたときに願われた世界平和実現の
ために“使者”として精進いたします。
いつも霊界から優しく励ましてくださるおばあちゃん、これからもよろしくお願いします。おばあちゃんの
ように、心情の世界において豊かさと実践力をもつ者になることを、再度心に誓いながら、
お会いできる日まで。    感謝をこめて
               2007年5月13日母の日 ウクライナ・ハリコフより  千恵子

                



お茶匙の冒険
-尾脇弘子さんの光輝く霊に捧ぐ-


 何年も前のこと、私の生徒である千恵子が、彼女のお祖母様の物であったお茶匙を、手土産として私の家に持って
きました。そのとき初めて、お祖母様が茶道をなさり、書道、華道もたしなまれていらっしゃいていたことを知りました。
今は、お年を召され、ご病気である故、もう長い間、袱紗捌き(ふくささばき)はなさっていないということでした。

私は、お祖母様からその高潔な(気高い)芸術を学ばなかった生徒に対して無念な思いを抑えることができませんでした。
少しの驚きと心苦しさをもって、面識も無い千恵子のお祖母様と共に年を重ね、深味を持ったお茶匙を見つめました。

そして、残念ながら私も千恵子と同じ年の頃、祖母からほんの少しの内容しか学び取ることができなかった事実を回想し、
ふと考えました。
“なぜこのお茶さじは、他でもない私のところにやって来たのか? 私はお茶を立てることもできなければ、茶道を学ぶ
チャンスは微塵もないというのに”。

数年後、私の念願の夢が叶いました ―― 20年にわたる机上の日本研究の後、長年密かに愛する国、日本に行く
ことができたのです。千恵子のお祖母様はその時にはお亡くなりになられていましたが、偶然、私の訪日が49日に
重なったのです。私はこの尾脇家の家族行事に招待され、決められた日に鳥取の地を踏むことになりました。日本で
私を受け入れてくださった方々は、私にとって尊敬の思いよりももっと大きな、第2の家族となり、私の家にやって来た
お茶匙のご主人との出会いは、死後であったにせよ、実現しました。

そしてこの時、このお茶匙が私の人生に何らかの意味をもっているであろうことを確信しました。
仁美子(尾脇家の三女)は、子供のような無邪気さで、鳥取の家 ―― お祖母様が過ごされ、彼女が幼年時代を送った
家 ―― を見せてくれました。私達はまるで羽根が生えたように、部屋から部屋を駆け回り、灌木(低木)の茂みを飛び
越え...仁美子は彼女が幼いころ愛した秘密の場所を、真に気前よく案内してくれました。そして、これら思い出のすべて
に、目に見えないお祖母様の姿が感じられました。
千恵子は彼女がどうすることもできない事情のために鳥取に来ることができず、私は通訳なしでこの期間を過さざるを得ま
せんでした。私の貧しい英語力では、アメリカで学んだ仁美子が話す数十分の一も理解することはできませんでした。しかし、
彼女の幼少時代を回想するこの旅は、突然、言語を超越するものになりました ―― 仁美子はすべてを理解させてくれる、
心の言語(心の言葉)で語りかけてくれたからです。

尾脇弘子さん
   仁美子と私は日本式に床に座り、写真のアルバムを捲り始めました。写真の中にいる美人は、晴れの着物に身を包み、
頭には角隠しを被っていました。お祖母様のお嫁入りです。ご家族の写真が続き、突然、大人の女性の写真に目が止まり
ました。時代は苦難の時であり、この女性の夫は早く亡くなり、彼女には8歳に成ったばかりの長男をはじめ4人の子供と
店が残されました。私達の国(ウクライナ)では、なぜが日本女性は“華奢”で“か弱い”存在として受け止められていますが、
このようなイメージはある側面でしかないことを知りました。日本女性はウクライナ女性と同じく、―― “頼もしく”、“忍耐強く”、
“家庭に対して献身的”であります。日本は女性によって維持されています。尾脇家のお祖母様は、まさにこのような女性でした。

4人の子供を立派に育て上げ、良き女主人として店を5つ持つまでにビジネスを拡大させました。古い写真には、私たちに笑い
かける女性が、ある時は山の頂上で、ある時は従業員と、またある時はフォーラムなどに参加されていました。どうやってこんな
にも多くのことをこなされていたのでしょう!? この強い意志を持った女性は、母として賢く、祖母としてやさしい方だったのでしょう。
―― 残された写真には、彼女の傍にはいつも、息子や娘、孫たちが一緒に写っていました。

   私たちが祭壇のある部屋に入ると、壁には、お祖母様の書かれた繊細な習字と絵がありました。その作品の中には、
正確さ、自己修養、そしてやさしさ!が溢れていました。このように、私と尾脇家のお祖母様との出会いは成立し、私は仏教の
儀式に参席しました。お経の意味は分かりませんでしたが、私なりお祖母様の天国における平和と安らぎを心から祈りました。

   その後、私たちは教会を訪れました。周りはすべて日本語でしたが、ご参席された方々が、感謝と尊敬の心を抱いてお祖母
様のことを追憶されていることは伝わってきました。語られる話の中には笑いもあり、人々は涙しながらも、微笑んでいました。
面識も無ければ言葉さえ知らぬ者にも、故人が如何なる人物であるかを理解させる尾脇家のお祖母様とは、“光輝く人”であった
のでしょう。

私が今でも恥ずかしく思うことは、お祖母様に対する私の気持ちを日本語に訳してくれた、尾脇家の長女を困らせてしまったことです。
私は彼女のプロフェッショナルでスピードのある英語を理解することができず、自分の心境を表現することができませんでした。
東京に戻る途中、私はもう一度自問してみました。―お茶匙が示す本当の意味とは...。

お茶匙の謎解き
   その2年後、私はハリコフ飛行場で、茶道家を日本からお迎えしました。これが実現したのは、ウクライナの人々に日本文化を
紹介する、文化プロジェクト“天照大神の国”実現のためにご尽力してくださった尾脇さんのおかげです。

   ウクライナを訪問された先生は、茶道を見せるだけではなく、教えるために来てくださいました。10日間、先生は知識と心を
生徒たちに惜しみなく与えてくださいました。それによって、少しずつ“茶の道”の深い意味が開かれ始めました。“手の舞”のように
見える動作の一つ一つにも重要な意味が込められていることを知り、茶道は“自己修養”、“愛”、“人を敬う”という、大切な教えを
学ぶ場であることを痛感しました。先生は帰国される前に、10人の生徒のうち2人に、お免状を書いてくださいました。その一人が
私の娘のヴラーダです。このように、いま私の傍には、積極的に日本文化普及活動をしてくれる「茶人」が居ります。あのお茶匙が
誰に受け継がれたか、語る由もありません。

   現在、尾脇さんの孫娘は学位論文を書いていますが、その内容は、ウクライナの画家であるダヴィッド・ブリュリュックが日本に
いた期間についてです。この研究は、両国の文化を繋いでくれるものです。そして私は、なぜ他でもない私の娘がお茶の先生に
なったのか理解しました。それは、尾脇家のお祖母様は孫娘をウクライナに与えてくださったからです!小さな平和の大使となった
私達の子供と孫たちが、我々以上に多くの使命を果たしてくれることを願うばかりです。

   娘がお茶を立てるたびに、彼女の手の中にある深みのあるお茶匙と幸福な顔を浮かべるウクライナの人々を見ては、私は
心の中でお祖母様にこう言うのです―ありがとうございます。 母の日に       
                                        スヴェトラーナ・リバルコ




はじめに

  次女、千恵子は15歳のときウクライナに留学し、現在27歳、12年間の留学生活をこの6月に
大学院の卒業で終えますが、ここでいくつかの教訓を学びます。

1、 長女、善美子も15歳で米国へ留学、3女、仁美子は中学から韓国へ留学。小生も42歳からの
米国留学でしたが、これらを通じて、自らのアイデンティティー確立と異文化体験のバランス。

どの子も最初はことばがわからなくて泣いたようです。年を取れば取るほど自尊心が岩のごとく
確立していて、ことばの壁を超えて自己否定の過程を通過することが本当に厳しいものです。
しかし「色即是空」「空即是色」の観の転換、悟りを得れば、2つ文化の長所も短所も含めたより
広い自由自在の世界を楽しむことができます。宗教・イデオロギー間の壁を超えるのも同じで、
まずは自分を置いて相手も立場に立って考える。すべからく異文化体験、異宗教体験をすべしと
いうのが第1の教訓と思います。

2、 論文審査の委員全員に与えた千恵子の感動は、千恵子がスベトラーナ教授とのよき出会い
の賜物です。通常、素晴らしい成果は個人の実績によることも多いと思いますが、千恵子の成果
は学生と師がお互いに相手も為に尽くしあった結果、第3の天の恩賜です。
日本研究をされるスベトラーナ先生にとって、日本人であり豊かな美に対する感性を持った千恵子は
日本文化へのよき案内人であり、日本とウクライナの橋となろうとした千恵子にとって、ウクライナ
きっての文化人、学者スベトラーナ先生はウクライナと日本文化研究の良き道案内人でした。
私はここに日本とウクライナの友好のために、互いに尽くしあった2人の献身を大いに賞賛
したいと思います。

3、 この文を見られて、2人が目指す大きな目標に対してお感じになるアドバイス、ご協力を賜れば、
真に光栄に存じます。スベトラーナ先生はこの10月、研究のため来日されます。2005年7月、
平山郁夫先生とインタビューした折、来日中のスベトラーナ先生も同席くださいましたが、帰り道、
千恵子の通訳を通じての先生の「芸術と平和」に対する鋭い質問に、スベトラーナ先生が平山先生
に直接インタビューされたたら、もっと内容の濃いものになっただろうと悔やまれたことを思い起こし
ます。その後、スベトラーナ先生の「私の見た日本・日・露関係を中心として」は未来構想放送で
放映し、DVD、ビデオにも収録されています。
   2008年6月27日               大脇準一郎 拝

愛する家族へ

6月6日、無事に学位論文の発表を終え、約12年間に渡るウクライナでの留学生活を終えよう
としています。ここまで辿り着くことが出来たのは、家族の理解と精誠の賜物です。

この期間常に感じ続けていたことは、両家の父母と家族が他のために尽くした愛を、多くの方々を
通して私が受けてきたということです。

今でも青年のように大きな希望を抱き、目を輝かせながら「世のため人のため」と生活される
私たちのお父さん、お母さんは、私に奇跡を起こす愛 ―自分以上に他を思いやる愛― を
その生き様を通して無言に教えてくださいました。
人は、感謝の心と他のために与えようとする心をもつ時、夢にも思わなかった知遇を得ることに
よって、奇跡が現実に起りうることを幾度も体験しました。

その一つであるスヴェトラーナ先生との出会いも、私が大学院に入る3年前に、何気なく交わした
言葉が始まりだったと先生はおっしゃっています。
私はそのときの状況を覚えていないのですが、先生は私に「ウクライナに来て何がしたいの?」と
尋ねられ、私は「日本とウクライナを繋ぐ役目を果たしたいです」と答え驚かれたそうです。
私もなぜそのような突拍子も無い返事をしたのか自分でも不思議でしたが、ウクライナにいる期間、
我知らずいつも何らかの使命感のようなものを感じていたことは確かです。

大学院に入るまでの3年間、先生といろいろな文化活動を通して姉妹のような関係を結び、大学院に
入ってからは師弟関係以上の親子の心情的因縁を結ばせていただきました。
ご存知のとおり、先生のおじ様はスターリン時代、日本のジャーナリストと挨拶を交わしただけで
密告され、日本のスパイ容疑をかけられて15年間収容所で生活された方です。
それでも日本を恨まず、逆に日本を心から愛し、ウクライナにおける東洋学の発展に多大なる
貢献をされている先生に、私はいつも感服します。

そして私の師が最も信頼を寄せている人物が他でもない私のお父さんとお母さんです。
私に奇跡を起こす種を植えてくださったお父さん、お母さん、ありがとうございます。


私の心に焼きついた父母の像

「他のために与えようとする心」は、他でもない、そのように生きる父母の姿を通して自然と
身についていったのだと感謝します。
両親と同じ屋根の下で過ごした日々は数えるほどしかありませんが、今でも鮮明に思い
出すのは、子供の頃に焼きついた親の姿です。

お父さん、お母さん、尾脇家の晩の食卓には、必ずと言っていいほどお客さんがいらっしゃいま
したね。訪ねて来られた人々を光り輝く笑顔にして返していく父母の姿に、「私も将来こんな風に
人を輝かせるお医者さんになろう」と子供心に決意したことを思い出します。夜は政治、学術界
の先生方と真剣に何かを語り合われる(今思えば、あの時も日本の未来に心を砕かれていた)
お父さん、お母さんと向かえる朝も最高でした。

朝目を覚ませば、昇り行く巨大な太陽を背景にお母さんが水遣りを終えたバルコニーで、なに
やら花や鳥たちに話しかけていたその姿は、まるで自然界の女王様のようでした。

お父さんとは私が小学校に登校する前に一緒に駒沢公園をジョギングしたり、仏教だったのか?
他の宗教の朝起き会に参加したり、散歩後の朝食前にはマンションの階段や道路を楽しく掃除
しましたね。「朝は召使、夜は王様」「それは私の愛するお父さん」 
― まるでスフィンクスの謎解きのようですね(笑)。

いつでもどこでも普遍であり、潔く美しく生きられる気高き心を持たれたお父さん、お母さん。
あるときは、このご時勢に塩ご飯で生活されながらお父さんは「世のため人のため」と変わらず
無償でご自分の信念を貫かれ、そんなお父さんを陰でいつも支えながら、「ぼろを着ても心は
錦」と諭したお母さんのお姿をどれほど誇りに思った事でしょうか。

お父さんが長い間留守のときは、お母さんと土曜日の夜にお菓子作りをし、日曜日の朝は敬礼式
の後、すがすがしい早朝の散策をしましたね。
たくさんの木や花の名前を詩のように口ずさみながら、動植物にやさしく語りかける私のお母さんは、
いつも地域で虐げられる人、貧しい人、寂しい人々の友達であり、また、海外から訪れる人々にも
心を尽くす世界的な愛を持った方です。

結婚を通して、主体者だけでなく、私の父母にそっくりな、愛され日々世界のために与える生涯を
実践される素晴らしい家庭に出会い、まるで愛する父母が2倍に増えたようで嬉しかったことを思
い出します。
これまで物心両面に渡って支えてくださった両家のお父さん、お母さん、そして主体者に心から感謝
致します。いつも明るい心で迎え入れてくれるヒョンブとお姉ちゃん、話しながら穏やかな気持ちになる
お兄ちゃんと未和オンニ、夢にまで現れて家族の一人ひとりに真心を尽くす、愛する仁美子…
みんな本当にありがとう。

今はまだ何の実績も持ち合わせてはいませんが、私の出来る範囲で少しずつ人々を幸せにしながら
お役に立っていくことで恩返しが出来たらいいなと思います。
今日先生と予定していた訪問先が一つキャンセルになり、その空いた時間を利用して先生が手紙を
書いてくださいました。以下、添付いたします。



スヴェトラーナ バリーサ先生よりの手紙

こちらでは咲き始めたイリスの花が夏の訪れを知らせ、地球半円程も離れた(場所にいらっしゃる)
心に慕う親愛なる方々も、同じくこの紫の開花を楽しんでいらっしゃるのではないでしょうか。私たちは
一輪のイリスを学位論文公開審査発表の会場に飾り、千恵子はまるで美しい花のようでした。

親愛なるお父さん、お母さん!

千恵子の論文発表を心からお祝い申し上げます。彼女の成功の背景には、ご両親の多大なるご苦労
があったことと存じます。もしも発表をご覧になっていたならば、そのお心は娘によって喜びに満ち溢れた
ことでしょう。しかし、この日のすべての幸福は私独りに与えられてしまったので、その喜びを分かち
合いたく、また何より千恵子はその謙虚さゆえに多くを語らないと思いますので(千恵子、私の言葉を
全て訳して頂戴ね)ご報告させていただきます。

学位論文審査には、20名―ハリコフ、キエフ、リボフ、モスクワの教授団―アヴァンギャルド研究の
代表的な専門家たちが集いました。また、学位論文審査の試問担当者としては、科学アカデミー
正会員がキエフから、リボフからは博士が―どちらも尊敬され権威ある専門家です―参加しました。
そして、ウクライナ全国で千恵子の論文のレジュメを読んだ学者たちからは9通の批評が送られて
きました。つまり、千恵子の論文評価には31名が携わったことになります。

千恵子は、委員、試問担当者、批評家たちから出された質問に全て答えました。私が担当教官と
して胸を張って言えることは、彼女は申し分なく質疑応答をやってのけたと言うことです:彼女は
節度を守り気転を利かせ、はっきりと、明快に、勇敢に、礼儀正しく発表し、質問に対する意見を
述べていました。

千恵子は張り詰めた神経に打ち勝ち、立派に論文発表をやり遂げました。お父さん、前夜にかけて
下さったお電話は、緊張に満ちた最後の数ヶ月間を過ごしていた私たちにとって、とても重要であり
ました。お母さんが言い尽くせない愛を込めて準備してくださった郵便物は、ちょうど発表前に届き
ました。千恵子は送られてきた服に身を包み、子を愛する母の腕に抱かれ守られるかのように、
審査会場へ向かいました。親の愛の光と温もりが、私たちを励まし、力を与えてくれます…

今回2日間に渡って行われた4つの論文発表の内、彼女の発表が最も良かったとすべての委員が
認めています。これら数行を書くのは、私たちの千恵子がとても自己批判の精神に徹した人間
だからです。お父さんとお母さんは、責任感と廉恥心を強く持った娘をお育てになりました。
どのような賛辞も彼女をスポイルすることは無いでしょう。ただ願って止まないことは、彼女が
この論文発表を通して経験した両親の愛と事業に対する献身、結果達成への志向を忘れること
なく、学術も含めた私たちが取り組む全ての事柄は、私たちの真心の表れであり、世界平和への
奉仕であるということを理解してくれることです。彼女の論文がどれほどの熱意を持って受け入れ
られ、どれほど多くの尊敬される人物がご自身の時間と健康を犠牲にしてまでこの審査会場に
駆け付け、千恵子の研究成果を支えてくださったことでしょうか!論文を本に、またはシリーズと
して刊行するという申し入れをどれほど多く受けたことでしょうか!このような通過儀礼を経た後、
彼女がこの道で立ち止まることなく前進し続けることを、どれほど多くの人々が希望してくださって
いることでしょうか。なぜなら、近い将来50年は、この方面を開拓する人物は出てこないからです…
千恵子、もしかしたら彼女自身、ウクライナにとってどれほど重要な仕事を成し遂げたのかまったく
理解していないかもしれません…心から願うことは、私たちの千恵子が、神様とご両親から与えられ
た内容と正しく向き合ってくれることです…

現在、私たちは書類と今まで論文の準備で蓄積した膨大な事業に取り組んでいます。それらは近く
迫った別れについて考える暇を与えないのでとても良いことです…

もう一度、皆様にお祝い申し上げます。
このような娘を育て上げてくださったことに感謝致します。
いつも懐かしく想っています、
私にとって最も親愛なる家族―尾脇家
スヴェトラーナ バリーサ

千恵子より

天の限りない愛を受ける真に成熟した息子、私の愛し尊敬するおとうさん、
ありがとうございます

いつもお父さんが寝ることも食べることも忘れて全体に捧げるメールを通して、私は悔い
改めと感謝の涙を流します

お父さんがご自分の心の痛みを置き去りにしては、常にご自分の限界に挑戦され、最善を尽され、
世のために狂って生きられる姿は美しく、私の心に黎明の時を迎えさせてくださいます

お父さんのご苦労と勝利される実体を通して、私は神様の実在を見るようです。私の思いから闇を
拭い去るその深い親の愛に触れるとき、私は神様の愛を知るのです

私がお父さんを通して流す涙には、お父さんを見つめる神様の歓喜の涙が混じっています

天の限りない愛を受ける真に成熟した息子、私の愛し尊敬するおとうさん、ありがとうございます

父の日に愛と感謝を込めて
                    娘、千恵子より

     尾脇 千恵子の略歴

1996年11月:県立鳥取西高等学校1年中退、ウクライナへハリコフ国立舞踊学校へ入学し
バレエを学ぶ。と同時にハリコフ国立総合大学に籍を置く。

1998年6月:ハリコフ国立舞踊学校を卒業。
1998年9月:ウクライナ民族大学の予科に進む。
1999年9月:ハリコフ国立文化アカデミーの文化学学科に入学。
2004年6月:学士を取得。2005年6月:修士を取得。
2005年10月:ハリコフ国立デザイン・芸術アカデミーの大学院に入るが、
1年間休学し,日本とウクライナの文化交流のボランティアの仕事
に携わる。 Sun Culture Center, Sun Way Tour 
  (代表;ユリア・ハルチェンコ)国際部長兼任。
2006年10月:大学院へ復帰。
2008年6月:大学院卒業。現在、芸術学博士学位取得審査中のため待機。

 

お父さん、お母さんへ
大学の事務局からビザ延長のための、ポーランド行きではありましたが、今回の旅を通し
多くの恵みをいただきました。ポーランドの吉田宏さんをはじめとするNGOの方々には、
急なお願いにも関わらず素早く対処していただき、心から感謝致します。

この世には沢山の宗教がありますが、身も知らぬ人を自宅に招き入れることはそう滅多に
ありません。
そう思うと、ポーランドは人々のの信頼関係が厚く、よく連携の取れている美しい国だなぁ・・・と
思いました。

私はクラコフでドゥランさんというご家庭にお世話になりました。完全に言葉が通じなくても、
なんとなく家族の情が湧いてくるのは、親しみを持って接してくださったこの家庭に寄る所があります。
内外共に覚醒させていただいた旅でした。

************
さて、ご存知の通り、スヴェトラーナ先生は今年10月20日に訪日される予定ですが、先生が
日本でお会いしたい専門家や、もしくは参加なさりたい企画などの予定を作成しなければなりません。
私が先生のお傍でお手伝いできる時間も残り僅かとなってきましたので、お父さんとお母さんに
ご相談しながら迅速に事を進めて行きたいと思います。よろしくお願いします。

1、まず始めにお伝えしたいことは、ウクライナにおける東洋学の状況と、日本に行かれる
先生の目的と活動内容です。

現在、ウクライナで日本をテーマにした芸術学博士号を持っておられるのは、スヴェトラーナ先生
お一人です。先生がポスト・ドクターの学位を取得するために動き出された目的は、「私が行かなく
ては(開拓しなくては)、ウクライナにおける東洋学の復興をあと何十年待たせてしまうだろうか」と
いう真摯な思いからです。
ウクライナで最も日本文化への関心が高いのがここハリコフです。また、東洋芸術の研究の中心も
ハリコフです。以下、スヴェトラーナ先生から伺った内容です。この話を聞くと、なぜハリコフで東洋学
の研究が進められているのか、その歴史的必然性を感じました。

1920年代、ソヴィエト政権下ウクライナにおける東洋学の研究は、ハリコフ市に開かれた
「全ウクライナ東洋学協会(Всеукраинская ассоциация восто
коведов)」で開行なわれていました。この協会は、ウクライナの東洋学者を統括し、
ロシアの学者と共同研究を行い、定期的に「科学の世界(научный мир)」という、
東洋の歴史、文化、政治について書かれた雑誌を刊行していました。また、東洋学者たちに
よって書籍、芸術作品が蒐集され、ゆくゆくは東洋美術館を開く計画がありましたが、
その日は訪れませんでした。すでに「東洋学協会」が開かれた時、
・ ・・以下、翻訳中・・・
 先生が日本文化に関心を持たれたのは1980年代、まだソ連が崩壊することも知らない中、
東洋学(芸術・文化方面)を学ぶということは出世の道を断念することであったと聞いたことが
あります。もしかしたら、そのような精神的なものを求める人々によって繋がってきた「東洋へ
の関心」であるからこそ、今でも東洋は精神的な糧を得ようとする人々の心の拠り所であり、
憧れの的なのかもしれません。先生の言葉で印象に残っているものがあります。

「ソ連時代に私たちにとって宗教の代わりに心人間性を保たせてくれたのがロシアと日本の
文学だった。松尾芭蕉の俳句にどれほど慰みを得たことでしょう」スヴェトラーナ先生も、日本
文化に普遍的諸要素を感じられるからこそ、今まで研究を続けて来られました。先生は、日本
文化を理解し自国に伝えることは、人々を幸福にし、社会を良くする活動だと確信を持っておられます。
先生にとって東洋学が心の拠り所であったように、先生は機会あるごとにあらゆる場所を人生
教育の場として考えて活動されます。先生は、母として、妻として、講師として、ジャーナリストと
して、いつも美しい人間関係を追及され、人々の心に愛の光を灯す活動を黙々と続けておられます。
このような先生の歩みは平和への奉仕以外の何物でもありません。

ある時先生はこんなことをおしゃっていました「芸術学者は、宗教を受け入れ辛い人の道案内人」。

先生は特定の宗教に属している訳ではありませんが、人が人として仲睦まじく、美しく、気高く
生きる姿を希求しておられます。そして私が先生の活動に参加させていただきながら思うことは、
芸術といわれる本当に美しいものは人を育て、人を変える力があり、この世で一番美しいものとは、
詰る所、深くて広くて崇高な愛で人々が交わるときに生み出される共鳴する調和の心なのだということです。
いままで、「芸術の中の芸術は人と調和すること」という言葉が実感できなかったのですが、
先生にお会いして、なんとなく分かるような気がしました。愛はもっとも力があり、勢いがあり、偉大ですね。

また、いま日本人が模索している「世界に発信できる日本らしさ」は、海外を通してより一層強く
認識することが可能になると思います。

2、 先生と私の日本における活動目的を記載します。

先生の研究範囲は多肢に渡りますので、箇条書きにします。
① 着物(舞台衣装、歴史的着物、性別年齢別の着物、人形、)②着物の生地 ③根付 
② ④象牙彫像を始めとする置物 ⑤日本の精神的(内的)美が生きつづける ― 茶道

2008.1.25

L’viv(Ribov) 国際学会、  Kyiv(kIEV )国立美術館 「家族」
お父さん、お母さんへ

お久しぶりです。お元気でお過ごしですか?
私は1月25日から今日まで、スヴェトラーナ先生のご家族とモスクワの友人
(声楽家と朝日新聞の記者)とリボフとキエフに行ってきました。
1月26日、午前はリボフの芸術会館で開かれた国際学会に参加し、午後は
国立美術館で「家族」と題して開かれた展示会のオープニング・セレモニーで
着付けを披露しました。

展示会では、ウクライナ民族の「家族」的伝統の内、結婚式が紹介されました。
写真では殺風景な展示会のように見えますが、5つの部屋を様々な展示品が
陳列されました:
写真の他、工芸品、結婚の儀式に使われる布(“ルシニック”といい、新婦のこれ
からの人生を刺繍によって縫い出した“人生のプログラム”ともいえるもの)や
“カラバイ”という儀式用のパンなども展示されていました。

スヴェトラーナ先生は、私がおばあちゃんのお葬式にも、四十九日にも参加でき
なかったことを ご自分のことのように感じられ、機会あるごとに「おばあちゃんの
魂のために心を込めてがんばろう」と言われながら文化活動されます。
また、その後の報告は「尾脇家のお父さんとお母さんを喜ばせたい」という思いを
みなぎらせ、傍にいる私にメールを書くように促されます。
本当に先生は、一人ひとりの心を大切になさる方です。

ウクライナには国立美術館の称号をもつ美術館はキエフとリボフの2つだけですが、
今回 展示会の行なわれたリボフという地域は、ウクライナ愛国者、民族主義の核と
言われている処だけあって、そこで日本文化を発表できたスヴェトラーナ先生の
喜びは一入(ひとしお)でした。
10年前、先生が日本をテーマに博士論文を書くご意志をリボフで発表したとき
には、「日本 研究は日本人がするべきだ」と嘲笑した学者達が、今では先生を
好んで学会に参加するよう呼びかけ、今回は美術界の最高峰である国立美術館
に招待した事実は、当時からすると考えられないことでした。
これは、日本文化がこの国の抱える問題に対して指針となりうる要素があるから
に他なりません。