内村鑑三の名言

 内村 鑑三   プロフィール

 明治・大正期のキリスト教の代表的指導者、伝道者。万延2年2月13日高崎藩士の子として江戸に生まれる。
 1873年有馬私学校英学科に入学、翌1874年東京外国語学校に転じた。1877年札幌農学校に第2期生として入学し、W・S・クラークの残した「イエスを信ずる者の契約」に署名。翌1878年6月メソジスト教会宣教師ハリスMerriman Colbert Harrisより受洗。1881年同校を卒業し、開拓使御用掛となった。
 卒業にあたり、同期の新渡戸稲造らと一生を二つのJ(JesusとJapan)に捧げることを誓い合った。1882年上京し、農商務省水産課に勤めたが、1884年11月渡米。エルウィンの知的障害児施設で看護人として働く。1885年9月アマースト大学に入学。総長シーリーJulius Hawley Seelyeの大きな影響を受け、1886年に回心を体験した。1887年同校を卒業し、一時ハートフォード神学校で学んだあと、1888年5月に帰国した。
 帰国するや、まず新潟の北越学館に教頭として赴任したが、宣教師と対立して同年のうちに帰京。1891年1月、嘱託教員を務める第一高等中学校での教育勅語捧読式で、「不敬事件」を引き起こして辞職。のち、大阪の泰西学館、熊本の英学校、名古屋英和学校の教師となる。この間、『基督信徒の慰め)』『求安録』、『地理学考』(地人論』に改題)のほか、英文の『Japan and the Japanese』、『How IBecame a Christian』など、その代表的著作を刊行した。1897年から『萬朝報』の英文欄主筆となる。翌1898年『東京独立雑誌』を創刊、キリスト教に基づく痛烈な社会批判、文明批評に筆を振るった。1900年(明治33)9月より雑誌『聖書之研究』を創刊、以後この刊行と聖書講義とがその一生の仕事となる。同年にはふたたび『萬朝報』の客員となり、足尾銅山鉱毒反対運動、理想団による社会改良運動に従った。1903年日露開戦をめぐり非戦論を主張し、幸徳秋水や堺利彦らと同社を退社。1918年(大正7)からは中田重治、木村清松らとキリスト再臨運動に従った。昭和5年3月28日に没した。

著書:『後世への最大遺物』、『ロマ書の研究』『内村鑑三全集』全40巻など。弟子:藤井武、矢内原忠雄、三谷隆正ら多数の人材を輩出。 

-------------- 人生 ----------------------------

人生にとって 一番の幸福とは何か?それは自分の天職を知って これを実行に移すことである。

人生の成功とは、自分の天職を知って、之を実行する事である

人の天職を発見するは最も困難である。縦し又之を発見したりとするも、之を実行するは是れ亦、困難である

人生の成功とは、自分の天職を知って、之を実行する事である

一日は貴い一生である。これを空費してはならない。

後世へ遺すべき物は お金、事業、思想もあるが誰にでもできる最大遺物とは勇ましく高尚なる生涯である。

自己に頼りなさい。 他人に頼ってはいけません。

本業に集中しなさい。そうしればおのずと事業は発展していきます。

本を固うすべし。 然らば事業は自ら発展すべし。

急ぐべからず。 何事もあせらずに ゆっくり行きなさい。

人の生涯は、罪を犯しつつ死を前に望む恐怖の生涯である。罪の苦悶と死の恐怖と、この二つは、人が墓までたずさへゆくべき道連れである

信仰は信仰に由て維持する能わず、信仰は労働に由てのみ能く維持するを得べし、信仰は根にして労働は枝なり

家庭は日本人最大多数に取りては幸福なる処ではなくして忍耐の所である

もし全世界を手中に収めようともそのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。
人生の目的は金銭を得ることではない。品性を完成することである

もし全世界を手中に収めようともそのために自分の魂を失ってしまえば一体何の意味があろう。人生の目的は金銭を得ることではない。
品性を完成することである。

「生涯の決勝点」(1912・明治45年)
 生は美しくある。しかし死は生よりも美しくある。生のための死ではない、死ための生である。
美しく死んだ生を全うしたのである。あたかも競走におけるがごとく生涯の勝敗もまた最後の一分間
において決せられるのである。この一分間に後れを取って生涯は失敗に終わるのである。 
生涯のこの決勝点において神より特別の力を賜わり、走るべき道のりを尽くした者はさいわいである。

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真の愛は悪に対する憎悪を十分にふくむものである。仮面的の愛または浅き愛は、悪を憎むことを知らない。けれども深き真なる愛は、かくあることはできないのである

愛に束縛なし、真箇の自由なればなり 愛に疑惑なし、最大の真理たればなり 慾のための愛は、愛にあらず、愛は己の利を求めず
愛に恐怖なし。最上の道徳なればなり

人を作らんかな、人を作らんかな、人を作って而して後の社会を改良せんかな雇人は、 兄弟と思いなさい。客人は、 家族として扱いなさい。

病むものは汝一人ならざるを知れ他の人の行くことを嫌う所へ行け。他の人のいやがる事を為せ

競争的進歩は人類一般の損害にして利益に非ず。進歩の如く見えて退歩せり。真正の進歩は愛憐の結果なり

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「二個の愛」(1913・大正2年10月) 愛に二つある。愛せられんと欲して愛する愛がある、愛せんと欲して愛する愛がある。すなわち受動的の愛がある、
発働的の愛がある。 ……人に愛に対して神の愛がある。これは愛せんと欲して愛するの愛である。愛そのものに歓喜と満足とを有する愛である。愛せざればや
まざるの愛である。愛の返報を要求せざる愛である。愛せられざるも冷却せざる愛である、生きたる発働的の愛であって、憎悪をもって殺すことのできない愛で
ある。すなわち愛をもって生命とする愛である。 愛して、愛して、愛して、ついに悪をしてあるあたわざるに至らしむる愛である。

悪に勝つの方法」(1901・明治34年2月)
 聖書は私たちに教えて言う、あなた方は悪に負けてはいけない。善をもって悪に勝てと(ロマ書12・21)。しかし、悪は強く、善は弱い。ゆえに一つの善は一
つの悪に勝つことはできない。もし善をもって悪に勝とうと願うならば、私たちは百の善をもって一つの悪を征服しようとすべきなのである。もし悪が私たちに
対して憎しみの小銃を発するときは、私たちはこれに好意の大砲をもってすべきなのである。もし人が、私たちに怨みの毒水一杯を飲まそうとするなら、私たち
はそれに愛の洪水をもってすべきなのである。 私たちが多数をもって少数を圧迫しようとするのは私たちが善をもって悪を征服せんとするときにかぎる。

 「クリスチャンたるの確証」(1903・明治36年8月)
 敵を愛するとはつとめて敵のために善をはかるということではない。 敵を愛するとは読んで字のごとく敵を愛することである。すなわちわずかの悪意をもさ
しはさむことなしに、まじりなき好意をもってその人の善を思いかつこれをはかることである。しこうしてこれ、罪に死せる我ら人間がなさんと欲してなすこと
の出来ることではない。 これは聖霊を身にうけてキリストの救いにあずかるを得てはじめて我らのなし得ることである。 敵に対して好意を懐くことが出来る
におよんで我らははじめて自分のクリスチャンであることを覚るのである。

-------------- 日本 ----------------------------

キリスト教を純日本人のものとなし、これをもって日本を救い、かつ世界における日本国の使命を果たさしめん

成功本位の米国主義に ならう必要はない。誠実本位の日本主義に のっとりなさい。
日本に欠乏しているものは何か。それは富ではない。知識ではない。才知ある計略でもない。愛国心でもない。道徳でもないだろう。日本に欠けているのは
「生きた確信」である。真理そのものを愛する「情熱」である。この確信、この情熱からくる無限の歓喜と満足である

人は国外へ一歩踏み出すとき、個人以上のものとなる。彼は自分のうちに彼の国家と種族とを携えていく

東洋思想の一つの美点は、経済と道徳とを分けない考え方であります

一国民は言ふまでもなく、ひとりの人間といへども、一日にて回心せしめらるべきものと信ずるなかれ。真の意味における回心は数世紀の事業である

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「日本国を汝に与えんと欲す。」
 汝の生命をそのために献げよ。しからば日本国は汝のものたるべし、と。 われその声に応えていわく、誠にしかり、われは誤れり。われはいまだ日本国をわ
れに要求するの資格なし。神よ、願わくはわれを助けたまいて、われをして終わりまでこれを愛し、これがためにわが全生命を献ぐるを得て、これを有となすを
得しめたまえ、と。

「強烈の愛」(1916・大正5年)
 国を愛せよ。しかり、国人に国賊として排斥せらるるまでに深く国を愛せよ。 教会を愛せよ。しかり、異端として教会に放逐せらるるまでに強く教会を愛せ
よ。神を愛せよ。しかり、エリ・エリ・ラマ・サバクタニの声を揚げて神を愛する疑わざるを得ざるに至るまでに深く強く神を愛せよ。

「キリストと愛国心」(1903・明治36年5月) 日本人を日本人のために愛そうとするから失望する。人は元来、愛らしき者ではない。 苦きものに甘き
ものを加味するにあらざれば、これを食うことはできない。 愛すべきキリストによりて、愛すべからざる同胞を愛するにあらざれば、とうてい長らく彼らを愛
することはできない。 キリスト無しの愛国心は砂漠の迷景のごときものである。すなわち雲晴れて後、炎熱のいたると同時に消え失するものである。

----------------------- 社会 ---------------------------------------

恐るべき者は新聞記者にあらず、彼等は時勢の従属なり、其指導者にあらず、彼等は時勢の要求に反して何事をも語り得る者に非ず
恐るべき者は政治家にあらず、彼らは権力の阿従者なり。正義の主張者に非ず、彼等は権力の命令に抗して何事をも存し得る者に非
政治に野心がある、好策がある、結党がある、政治は清浄を愛し、潔白を求むる者の入らんと欲する所ではない
恐るべき者は宗教家にあらず、彼等は時代の子なり、神の僕に非ず、彼等は時代の思潮に逆らひて何事をも為し得る者に非ず

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 「悪評の幸福」(1915・大正4年9月)
 人に善く思わるるは危険である。彼に悪しく思わるる時が来るからである。 人に悪しく思わるるは安全である。われは彼が思うよりも善くなることができ
るからである。……最も安全にして最も幸福なことは、すべての人の悪評の下に、謙遜なる生涯を送ることである。

--------------- 平和 ---------------------------------------

最悪の平和も最善の戦争にまさる 平和は平和より来たる 非常に調和がとれて居るがこれでよのか
戦争は戦争のために戦われるのでありまして、平和のための戦争などとはかつて一度もあったことはありません
一個の我は他の我と常に戦いつつあるものなり。誠に実に、此の一生は戦争の一世なり

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「戦争の止む時」(1904・明治37年5月)
 勝つことかならずしも勝つにあらず。負けることかならずしも負けるにあらず。
 愛することこれ勝つことなり。憎むことこれ負けることなり。 愛をもって勝つことのみこれ永久の勝利なり。愛はねたまず、誇らず、たかぶらず、永久に忍
ぶのである。 そして永久に勝って永久の平和をもたらす。世に戦闘の止む時は愛が勝利を占めし時のみ。

 「愛の十字軍」(1904・明治37年6月)
 私はなにをもってこの世を救おうか。 武力をもってではなく、正義の言葉でもない。天国の喜びをこの世に提供して救いたいと思う。 すなわち新しい愛の
力によって、この世の低くいやしい情欲を排除して、これにかわって天の清き性情をもって救いたいのである。

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誠実から得た信用は最大の財産となる。
清潔、整頓、堅実を主としなさい。
富も財産なり。知識も財産なり。健康も財産なり。才能も財産なり。意志もまた財産たるなり
金を遺すものを賤しめるような人は矢張り金のことに賤しい人であります
貧者の一つの幸福は世が彼の交際を要求しない事である
微笑は大なる勢力なり、春の風の如し。心の堅氷を解く力あり 作ったものでる。ゆえに富んで人世の束縛より離れることは、はなはだ難しくある。
貧者の一つの幸福は、世が彼の交際を要求しないことである

汝貧する時に、先ず、世に貧者の多きを思うべし。一人にして忍び能わざるの困難も、万人共にこれを忍べば、忍び易し

-------------------- 真理 ほか ---------------------------------

真理を証するもの三つあり、すなわち天然と人と聖書
懐疑は思想の過食よりくる脳髄の不消化症なり
書を読まざる日は損失の日なり
本を固うすべし。然らば事業は自ら発展すべし
学は貴し。されども精神の貴きに如かず
人は希望的動物なり。彼にありては前を望むは自然にして、後ろを顧みるは不自然なり。希望は
健全にして、回顧は不健全なり
喜びの声を発すれば喜びの人となり 悲しみの声を発すれば悲しみの人となる。

第一に、地理学は諸学の基なり
第二に、地理は殖産に不可欠であり
第三に、地理学を学ばずして政治を談ずるなかれ
第四に、地理の美術文学における慈母の其子におけるの関係なり
第五に、誰か云う宗教に地理学の要なしと、誰か宗教歴史を読んで地理学の無用を認めしものぞある
第六に、地理学によって吾人は健全なる世界観念を涵養すべきなり

眼を自国の外に注がざるものにして、よく宇宙を包括する観念の起こるべき理なし

人に謙遜、寛裕、博愛の念を喚趣せしむるの最上策は、彼をして世界を周遊せしむるにあり、しこうして之に次ぐの策は彼をして世界地理を知らしむるにあり

真理を恋ひ慕ふ誠意を以てすれば地理学は一種の愛歌なり、山水を以て画がかれたる哲学なり、造主の手に成れる預言書なり

独立とは、自分自身の能力を自覚して、それを現実化することである

死魚は流れのままに流されるが、活魚は流れに逆らって泳ぐく

自然の自然は自然なり。自然主義者の自然は不自然なり


 
「読むべきもの、学ぶべきもの、為すべきこと」(1908・明治41年1月)
 学ぶべきものは天然である。人の編みし法律ではない。そのつくりし制度ではない。社会の習慣ではない。教会の教条ではない。
ありのままの天然である。山虫である、魚である、鳥である、獣である。これみな直接に神より出できたりしものである。 
天然はただ天然ではない。神の意思である。その意匠である。その中に最も深い真理は含くまれている。

「欲の上進」(1905・明治38年9月)
 人の欲は絶つことのできるものではない。欲は彼の固有性であって、彼の欲をまったく絶つことは彼を殺すことである
。故に人を無欲にすることは不可能事である。無欲無欲というて世の人はしきりに無欲の人を誉めるがしかしそのような
人は広き宇宙に一人もない。 ……欲の量に限りのないように欲の質にも限りがない。世には慈善、愛国よりもさらに高い、
さらに聖い、さらに貴い欲がある。
それは神を視んと欲する欲である。その子供とならんとする欲である。神の懐にはいり、その愛の奥義を知り、これにはげまされて
ひろく深く同胞を愛せんとする欲である。これが欲の絶頂である。 欲の昇華せしもの、欲と称すべからざる欲、欲に逆らい、
これを全滅せんとする欲である。          「内村鑑三の名言集」、 「まるちょん」より編集

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From: junowaki <junowaki@able.ocn.ne.jp>Date: Fri, 09 Sep 2011 08:56:12 +0900
Subject: 内村語録 <東洋と西洋>

内村語録 <東 洋と西洋>

人生は事業なりと西洋人は言う。人生は安息なりと東洋人は言う。において伝えらる。

「速く。急げ。自己と世界とを幸福にせよ。それも一刻も早く」と西洋の代表者は言う。

「人はすでに幸福なるものなり。彼はただその事を自覚すれば足る。ただ信ぜよ。さらば万事可なるべし」と東洋の代表者は言う。

西洋はマルタである。東洋はマリヤである。
そうして主は、活動して休止するところ知らずして常に自己主張の宣伝に従事する西洋にむかいて言いたもう、
「なんじは多くの事により思い煩いて心づかいせり。されど無くてかのうまじきものは一つなり。マリヤ(東洋)はすでに良きかたを選びたり。
こは彼女より取るべからざるものなり」と。(ルカ10/41-42)
エホバを待ち望め。雄々しかれ。なんじの心を堅うせよ。必ずやエホバを待ち望め(詩篇27/14)
エホバの救いを望みて、静かにこれを待つは善し(哀歌3/26) (1921年7月 『聖書之研究』)(信24/237)


内村鑑三と韓国・朝鮮内村語録<東洋文明(新秋の期待)>

 西洋文明根本の精神は個人主義である。彼らのいわゆる個人主義は個人中心主義である。政治は個人権利の擁護のためなりと言
い、宗教は個人霊魂の救済のためなりと言う。人生の目的は個人幸福の増進のためなりと言い、個人の福利を顧みずして、制度、
文物の存在の理由なしと思う。神の在るも、「われ」を恵まんため、彼が万物を造りしも、「われ」を幸いせんためなりと彼らは
言う。彼らは自己を中心として万物を見る。自己これ小宇宙なりと唱え、大宇宙はこの小宇宙の周囲を回転すると思う。

 西洋文明がすべての点において破壊的なるはこれがためである。
個人中心主義は分立主義であって、これに則(のっと)りて、競争、戦争はまぬかれない。国は国と争い、教会は教会と争う。こ
れ西洋文明の自然の趨勢である。文明の進歩と共に人生をしてますます悲惨ならしむるはこれがためである。ゆえに西洋文明がそ
の終極に達する時は世界が破滅する時である。そしてわれらは日に日に進歩と共に破滅を目撃しつつある。

 しかしながら、かくあらねばならぬ必要はないのである。世界人類を破滅に導きつつある主義、文明を、維持、保存する必要は
ない。そして神はかかる文明をのろいて、これに代わるに、彼が定めたまいし別の文明をもってしたもう。すなわち、その聖子を
もって、すえたまいし天国の道である。すなわち自己を無きものとして神の聖旨を成就せんとする途(みち)である。この途に従え
ば、自分はどうなってもよいのである。自己、自家、自国、自教会、これみな聖旨をなすために有用であって、その他に何の用な
きものである。自己を殺すが、真に生くるの途である。他を殺して自分が生くるのでない。その正反対が真理である。

 世に誤謬多しといえども、西洋文明これキリスト教文明というがごときはない。東の西より遠ざかるがごとくに、西洋文明はキ
リスト教より遠ざかる。一は、他のものの正反対である。その根本の精神に至っては、東洋文明ははるかにキリスト教に近くある。
犠牲、謙譲の精神に至っては、東洋人ははるかに西洋人以上である。東洋人もちろん完全人でない。彼を練磨、完成する必要は大
いにある。されども人生の根本義について、東洋人は西洋人に学ぶ必要はない。イエス御自身が東洋人であった。アブラハム、モ
ーセ、イザヤはすべて東洋人であった。われら現代の東洋人は、西洋人に由(よ)ることなく、直ちにこれらの模範的東洋人に教
えらるべきである。ここに文明の改造、世界の革新がきざしつつある。西洋文明の没落を耳にする今日、われらは、神がアジア人
に授けたまいし、聖書に由る東洋人の勃興を期待しつつある。(1927年9月『聖書之研究』)(信23/277-)


内村語録 <日本人とキリスト>

もし日蓮に授くるに法華経をもってせずして聖書をもってせしならば、彼はルーテルなりしならん。
もし馬琴にしてナザレのイエスの心を知るを得しならば、きのみ。
彼にクロンウェルの義憤なきにあらず。ただ彼を導きし光明の、われらの心を照らさざるのみ。

われらに人類の生命たるキリストを与えよ。さらばわれらは欧米の民に一歩を譲らざるべし。
(1901年5月『聖書之研究』)(信7/212-)


語録<アメリカ的キリスト教>

成功を統計に徴す、これアメリカ主義なり。しかしてこの主義をキリスト教に応用せしもの、
これ余輩の称してもってアメリカ的キリスト教となすものなり。努む。
しかしてたまたまその、大建築物または多数の帰依者となりて現わるるあれば、成功を歓呼して神に感謝す。
彼らは物に現われざる純真理の美を認めず、また統計をもって表わすあたわざる霊的事実の成功を知らず。
彼らは現実を愛すると称して、万事(すべてのこと)の機械的なるを欲す。
余輩は多くの他の点において深くアメリカ人を尊敬す。されども宗教の一事においては彼らと趣好を同(とも)にするあたわず。
(1904年7月 『聖書之研究』) (信8/223)


内村語録 <欧亜の領分>

物界は欧州人に属し、霊界はアジア人に属す。部、アフリカ大陸のほとんど全、アジア大陸の大半は、今やことごく欧州人に属す。
欧州人はまことにこの世の大王なり。全地は今やまさに彼らのものたらんとす。
されども世界の宗教はことごとくアジア人の宗教なり。
キリスト教はイエスより出でて、彼はユダヤ人にしてアジア人なりし。
回教はモハメットより出でて、彼はアラビア人にしてまたアジア人なりし。
仏教は釈迦より出でて、彼はインド人にしてまたアジア人なりし。
欧州人が物界に王たるがごとく、アジア人は霊界に王たり。
この世が化して、ついにキリストの国と成るべしというは、ついにアジア人の霊的感化に服すべしとの謂(いい)なり。

アジアは原始的大陸なり。しかして宗教は人生の原始的解決なり。宗教のアジアに発原すべきは、二者の共有性のしからしむるところなり。
もし科学は宗教の侍女(ハンドメイド)なりと言うならば、欧州はアジアの侍女ならざるべからず。

霊魂が肉体以上たる間は、欧州はアジア以上たるあたわず。の聖職者として生きん。
アジア人が宗教を欧州人より学ぶは逆なり。地の事については、彼らをしてわれらの教師たらしめよ。

されども天の事については、われらをして彼らに教うるところあらしめよ。これ神の定めたまいし順序なり。

われらは欧人または米人の宣教の恩恵にあずかりて、神の聖旨(みこころ)にそむきつつあるなり。
(1913年7月 『聖書之研究』)(信24/236)


日記・書簡
「キリストの福音は東洋教」1921年1月14日(金)雨

 寒き、いやな日であった。西洋文明のつまらないものであることを深く感じた。
これは国を建つるものにあらずして、壊(こぼ)つものである。現に西洋諸国は文明のゆえに、こわれつつある。
排日運動の結果として、日本が西洋諸国より絶交されても、少しも歎くに及ばない。

東洋には東洋の長所があって、これは、はるかに西洋のそれにまさったものである。
そうしてキリストの福音は、その思想の系統において東洋教である。ゆえに、西洋人よりも東洋人によりて、より深く解せらるるものである。
われらは、西洋人によりて伝えられしキリストの福音はこれを保留する。
しかしながら、その他のいわゆる西洋文明は喜んでこれを返還する。高価なる、複雑なる、そうして物質的なるがゆえに浅薄なる西洋文明は、
身を毒し、心を汚し、国を滅ぼすものである。英国米国といえども、決してうらやむべき国ではない。(日2/8)


内村語録 <善悪の判断>

今の人は、その日本人なると米国人なると、信者なると不信者なるとを問わず、罪を犯して、まずかったと言いて、悪かったと言わない。
彼は罪の罪たるを認むるあたわずして、ただわずかに、その不結果に終わりしを歎ずる。
彼らは実利主義者であって、行為そのものの真価を探らずして、その結果いかんにのみ注意する。
彼らにとり、うまく行く事は善であって、まずく行く事は悪である。
うまく行く以上は、彼らはどんな無礼、どんな卑劣をなしてもはばからない。
そうして、かかる道徳的不能が、キリスト教の名の下に、米国宣教師によってわが国
に輸入されしは悲歎のきわみである。

善悪を、行為目前の結果によって判別するは、道徳の根本的破壊である。
儒教も仏教もキリスト教もあったものではない。
直感的に善悪を判別する鋭敏なる良心なくして、福音を聞くも無益である。
余輩は全力をあげて、商売根性をもって宣伝せらるる米国流のキリスト教に対せざるを得ない。
     (1922年4月 『聖書之研究』)(信8/138-)


内村語録 <東西両洋の意志>

恐るべきは英民族の意志、ドイツ民族の意志、北欧蛮人遺伝の意志である。
すなわち欧州人と、米国における彼らの子孫の意志である。
彼らは自己の意志が他人に受けられざればやまない。
そして受けらるることを称して改宗という。
この強大なる意志の進撃に会うて、いかなる東洋人といえども、これに堪うることはできない。

敵は国外においてあらず、われらの中にある。
すべての労働を憎んで懶惰を愛する者、すべての民の膏血をすすって自己は錦褥(き
んじょく)の上にあって無為の生涯を送る者、すべて虚言を吐いて民を惑わし、労はこれ
を他人に負わしめて、自身はその利益を収めんとする者、これらがわれらの真個の敵である。

われら、もし外敵を打つに先だってわれらの中にあるすべての敵を平らぐるならば、
外なる敵は打たずしてみずから退くにきまっている。

そうしてわれら平和を唱うる者は、内なる敵を矯(た)めて外を治むるの策を講ずる
者である。(1903年9月 『万朝報』 「近時雑感」) (信21/35)


内村鑑三語録  <時勢の観察(2)実益主義の国民>

 スイスの地理学者アーノルド・ギョー氏、かつて蒙古(もうこ)人種の特性を叙していわく、
「彼らの脳髄は事物の実益を見るに敏にして、抽象的真理の攻究に及ばず」と。すなわち
蒙古人種は、事実の真価を定むるにあたって、実益上に現わるるその結果よりして、
その中に含容せらるる真理に依らずとなり。
すなわち蒙古人種は実利の民にして、主義、信仰の民にあらずとなり。すなわち蒙古
人種は主義そのものを評するにもその実益をもってして、その原理を問わずとなり。

 余輩はギョー氏のこの観察をことごとく当たれりとは言わず。われらの祖先に主義の
人ありしことは、余輩の常に誇るところなり。楠正成は少なくとも主義の人なりし。彼は
勝敗のおもむくところを知りながら、義務と責任とを避けざりし。大石内蔵之助は主義
の人なりし。彼は国法を犯しても彼の人生観を実行せり。西郷隆盛は主義の人なりし。
彼は国家にまさりて正義を愛したり。されども明治今日の日本人に至りては、彼らは
全く蒙古人種の本性を現わす者と言わざるを得ず。

 見よ、いかにして今日の日本人が宗教の真偽を評するかを。彼は言う、キリスト教に
真理なきにあらず、されども、これ国家に害あれば、排すべしと。いわく、仏教に迷信
多し、されども国家に利益あれば、保存奨励すべしと。すなわち彼らは宗教問題を決
するにおいてすら、これを治国平天下的すなわち政治的に考えて、抽象的、探理的に
究めず。しかしてこれ凡俗の依り頼む論法なるのみならず、その博士と哲学者とが
この科学的考究法を用いて、恬(てん)として恥ずるところなきがごとし。

 宗教、哲学問題においてしかり。いわんや政治、外交問題においてをや。自
由主義採るべし、これに実益あればなり、保守主義ひろむべし、これ国家の実
益なればなりと。ゆえに憲法国をもって誇る今日の日本において、政治家なる
者はみなことごとく政治屋にして、国家をそろばん的に済度せんとする者のみ。
一人のグロティウス、ホッブスのごときありて、宇宙の真理に訴え、恒星の配
列に考え、人性の原則にさかのぼりて自由または改進または国権の大義を考究、
唱道する者なし。ゆえに政党の軋轢なるものは利益と感情との軋轢にして、主
義の討議にあらず。大義の争論にあらず。ゆえに議会の舌戦なるものは、おお
むね党人の小戦闘(こぜりあい)にして、大義、正論の発表にあらず。新聞記
者は余輩に報じて言う、「日本の議会にいまだ一人の雄弁家なし」と。これ日
本の政治家に大信仰を有する者なきの証にあらずして何ぞ。人、宇宙の大真理
に動く時にのみ雄弁あり。そろばん玉的政治家より天火の洗礼は来たらず。

 これを近来の日本の外交において見よ。同一の実利主義の実行を見ん。何ゆ
えに朝鮮は救わざるべからざるや。いわく、朝鮮の独立は日本国の利益なれば
なりと。何ゆえにシナを討つべきや。いわく、充分の勝算あればなりと。彼ら
は日清戦争を義戦なりと唱えたり。しかして余輩のごとき馬鹿者ありて、彼ら
の宣言をまじめに受け、余輩の廻らぬ欧文をつづり、「日清戦争の義」を世界
に訴うるあれば、日本の政治家と新聞記者とは心ひそかに笑って言う、「善い
かな、彼、正直者よ」と。義戦とは名義なりとは、彼らの知者が公言するをは
ばからざるところなり。ゆえに戦い勝ってシナに屈辱を加うるや、東洋の危殆
いかほどにまで迫れるやを省みることなく、全国民こぞって戦勝会にせわしく、
ビールを傾くる何万本、牛を屠る何百頭、シナ兵を倒すに、いのしし狩りをな
すがごときの念をもってせり。しかして戦い局を結んで戦勝国の位置に立つや、
その主眼とせし隣邦の独立は措いて問わざるがごとく、新領土の開鑿(かいさ
く)、新市場の拡張は全国民の注意を奪い、ひとえに戦勝の利益を十二分に収
めんとして汲々たり。

 義戦もしまことにまことに義戦たらば、何ゆえに国家の存在を犠牲に供して
も戦わざる。日本国民もし仁義の民ならば、何ゆえに同胞シナの名誉を重んぜ
ざる。余輩の愁嘆は、わが国民のまじめならざるにあり。彼らが義を信ぜずし
て義を唱うるにあり。彼らの隣邦に対する親切は口の先にとどまりて、心より
せざるにあり。彼らの義侠心なるものの浅薄なるにあり。ある人は肥後人を評
して、「逃ぐる敵を追うに妙を得たる武士なり」と言えり。今日の日本人はみ
なことごとく肥後人と化せしにあらざるなきか!

 今日の日本人のまじめならざるは、その無数の新聞紙をもって徴すべし。新
聞紙に自由主義、国権主義、改進主義、革新主義、実業主義あるは、鳥に毛色、
足軽に旗色あるがごとし。しかして彼らのあるものは政府の失態を駁撃するを
もって商売となし、あるものは改進党きんちゃく切りを叫び、あるものは自由
党変節を叫ぶ。されども、よく彼らを解剖し見よ。自由党必ずしも自由の大義
を信ずるにあらず。改進党必ずしも改進の秘訣を守るにあらず。国権党必ずし
も愛国者にあらず。自由党の変節は彼らの信ずる実益(国家ならびに自党の)
より来たり、非政府党の合同一致もまた同じく実益より生ず。

 主義と原理との争いにあらずして、実益とこれに伴う感情の争いなれば、彼
らを代表する新聞紙は反対党を駁するを知ってその他を知らず。日本人四千万
は、その無数の新聞紙によりて政府党ならびに非政府党の悪口を学ぶにとどま
りて、その他を学ばず。政府に過失あらんか、吾人は直ちにこれを知るを得べ
し、責任派に過失あらんか、『日日』『東京』の類はその摘発にはなはだ敏な
り。されども日本人全体に過失あらんか、無私公平をもって誇る新聞紙は沈黙
を守り、英国に『タイムス』あるがごとく、罪悪はいずこに潜伏するも、これ
に筆鋒を向くるにはばからざるがごときは、日本の新聞において、いまだかつ
て見ざるところなり。

 そは他なし、社会は新聞屋の花主(とくい)なればなり。伊藤内閣の憤怒を
買うも可なり。されども世論大明神の震怒に触るべからず。新聞紙の実益は社
会の賛賞を得るにあり。ゆえに彼らは、日本をほめたて、日本人を盛り立つる
をもって本職となす。反対党を駁する、これがためなり。主義の看板を掲ぐる
もまたこれがためなり。しかり、今日の日本の新聞記者は昔時のユダヤの、に
せ預言者のごとし。彼らは浅く民の傷を癒し、平和なきに平和平和と叫ぶ者な
り。彼らの多くは政治的やぶ医者なり。彼らは興奮剤と甘露水とのみをもって
国難を治せんとする者なればなり。彼らに信仰なし。勇気なし。彼らは社会を
詰責するあたわず。ゆえに社会の教導者としては一厘の価値なし。

(1896年8月 『国民之友』)(信24/64-67)


日記・書簡 「国富と堕落」

1924年10月29日(水)晴

 米国も滅びつつある。日本も滅びつつある。現世の快楽を追求するをもって人生唯
一の目的となしつつあるの点においては、日米何の異なるところはない。問題は、
日米いずれが先に滅ぶかである。あるいは米国の方が少し早いかも知れない。

日本は露国より樺太の半分を取って、その森林を切り倒し、製紙原料のパルプを作
り、これをもって紙を作り、毎日、不道徳を伝うる新聞紙を発行せしめて、国民の堕落
を促し国家の滅亡を早めつつある。国に新富源を供すれば、これを善用せずして
悪用して自滅を計る。かくて愛国は単に国民の腐敗、堕落を賛(たす)くるの結果に
終わる。
この世の事は何をなしてよろしきや、いっこう、わからない。ただキリストの福音を
説くことのみ、絶対永久の利益である。(日3/102-)


日記・書簡「日本を滅ぼす文士と新聞記者」1925年9月25日(金)雨

 近ごろ、ある新聞紙に、「思想なき文芸を葬れ」と題する論説の連載せられてある
を見た。
世人がようやくこの事に気が付くに至ったことを喜ぶ。まことに今日の日本に文芸は
有っても文学はない。文学は思想である。思想なき文学者は文学者にあらずして文芸
師である。講談師と異ならざる者である。言葉を売る代わりに文字を売る者である。
彼らの間にサッカリー、ジッケンス、ジョージ・エリオットのごとき文学者は一人も
ない。ゆえに、試しに彼らの全部が今日消え失するとも、日本人は何の損害をも感じ
ない。彼らの間に多くの背教者と堕落信者とがある。彼らはいずれも「遊び人」であ
る。筆を執って起(た)つ勇者ではない。責任をまぬかれ、ただ、おもしろおかしく
一生を終わらんと欲するなまけ者である。日本国を滅ぼしつつあるものは多々ある
が、今の文士と新聞記者とがその主なるものであることを疑うことができない。実に
日本全体を見て今やたよるに足る者は一人も見当たらない。心細い次第である。しか
し全能の神はいましたもう。神は彼の善き聖旨(みこころ)のゆえに、この民に救い
を施したもうであろう。しかしながら、救いは刑罰を経ずしては降(くだ)らないの
がつねであれば、悔い改めざる日本人の上になおこの上に刑罰の降るはやむを得ない
(日3/220)


<宗教と道徳と経済>

宗教は道徳以上である。経済は道徳以下である。
しかも、以上であり、以下であって、二者同じく道徳を助けるものである。
道徳は自身ひとりで立つことのできるものではない。れて、初めてその完全に達することのできるものである。
(1903年6月『聖書之研究』)(信8/221)


<興亡の因果>

経済の背後に政治あり。政治の背後に社会あり。
社会の背後に道徳あり。道徳の背後に宗教あり。
宗教は始めにして経済は終わりなり。宗教の結果はついに経済において現わる。

隆興しかり。また敗滅しかり。余輩はその末を見てその本(もと)を知る難(かた)からず。
またその源を知ってその末を卜(ぼく)し得べし。
(1904年4月『聖書之研究』)(信8/222)


内村語録<道徳と信用と富>

道徳の、人に認められしもの、これを信用といい、信用の硬化せしもの、
これを富という。

道徳なくして信用あるなし。信用なくして真正の富あるなし。

しかも道徳は容易に人に認められず、信用は容易に富と化せず。

道徳が化して富となるまでに、多くの時日と忍耐とを要す。

されども道徳はついに富と化せざればやまざるものなり。

われら、善をまきて、何びとか、その結果たる富を刈り取らざるを得ず。

道徳を唱えて、これをおこなう者もまた、国家を富ます者なり。
しかり、かかる者のみ、真に国家を富ます者なり。
(1908年2月 『聖書之研究』)(信8/116)


<病的愛国心(Diseased Patriotism)>

 「愛国心は常に人類特愛の徳なりき」と有名なるフランスの一文士は言えり。
「愛国心は確かにわれらの時代の特愛の徳なり、そはわれらの時代の宗教とすら
成れり、しかして宗教としてそれは当然そのタータフ(偽善的信仰家)を有す。
もしモリエールがわれらの時代の人なりしならば、彼らはモリエールの描かんと
欲したるたぐいのものなり。このたぐいの偽善がルイ十四世時代の宗教的偽善に
劣らず民衆に厭はしきものとなるの日は、遠からざるなり」と。

 フランスにおけるごとく日本においてしかり。かつて愛国心が現在のごとく声
高に我国人によって叫び廻られしことなく、その名をもってこれ以上の害悪のお
こなわれしことなしとは、余輩の信ずるところなり。愛国心の名において危害は
国賓に加へられ、しかして同じ名においてわれらは軍備急増を求むる叫号によっ
て、破産の淵に瀕せしめられつつあり。わが教育制度は愛国心に訴うるその声の
極端なりしがゆえに腐敗せり。唯一人の真の愛国者を産することなくして、愛国
心の騒音はほとんど国土を溺れしめたり。このたぐいの愛国心については、われ
らの訴うる声ますます少なからざるべからず、それにますます多きを求むべから
ず。

 愛国心が純粋にして真実なる為には、無言にして無意識ならざるべからず。真
実なる人にして己(おの)が国に対し熱烈なる愛を有せざる者はあり得ざるなり。
愛国心は彼には「自然の感情」にして、彼の負える皮膚の色のごとく脱ぎ去るあ
たわざるものなり。そは彼の存在そのものの一部分にして、真正無雑の自己の当
然の結果なり。われらに真の人を示せ、しからば彼の愛国心を保証せん。しかれ
ども、人の真心はその愛国心によりて保証することあたわざるなり、そは愛国心
はあまりにしばしば「悪漢の最後の拠り所」なればなり。

 無言に畑を耕す農夫、勤勉に読書にいそしむ学生は、愛国心を説くことを職業
とする人々よりはるかに愛国者なり。しかして数百万のかかる無言の農夫と数十
万のかかる勤勉なる学生のこの国にあるは、少数のこれら職業的愛国説教者のあ
るよりも、日本国民の愛国心のために多くを弁ずるものなり。まことに日本人の
愛国心は、これらの騒がしき愛国者によりて言い触らさるるにははるかに余りに
深きなり。そは無言にして無意識なり、しかるにこれら「タータフ」連の口に唱
うる愛国心は、健康と力を求めて叫ぶ病人の訴えたらざるを得ず。

 しかして愛国心とは、われらが己れの国に負う明白なる義務を果たすこと以外
の何者なりや! 隣人に親切なること、貧しき者乏しき者に同情すること、勤勉
にして鄭重なること、等などは、われらの見るところによれば国家の拡大を策し
わが国民の美徳を誇ることと同じだけ愛国的なり、多くの場合にはそれ以上に愛
国的なり。芝居がかりの愛国心は、実に十分以上を有せり。日本が大いに必要と
するものは、深き無言の無意識なる愛国心にして、今日の騒々しき愛国心にあら
ざるなり。 (1898年3月31日『万朝報』)(英6/216-)


内村語録<神を知るの道>

神を知らんと欲せば、新たにその存在の証拠を求むるを要せず。

日本人を日本人のために愛そうとするから失望する。

人は原来、愛らしき者ではない。
苦きものに甘きものを加味するにあらざれば、これを食うことはできない。

愛すべきキリストによりて、愛すべからざる同胞を愛するにあらざれば、
とうてい長らく彼らを愛することはできない。

キリスト無しの愛国心は砂漠の迷景のごときものである。

すなわち雲晴れて後、炎熱のいたると同時に消え失(う)するものである。

(1903年5月 『聖書之研究』)(信7/55-)


内村語録<人生の目的>

人生の目的は神を知るにあり。

一たび神に愛せらるるは、百たび帝王に寵せられ、千たび公衆の人望を博するにまさる。

一たび神の聖顔を拝せんがために、終生悲痛の中に過ごすも可なり。

天国の一瞥(いちべつ)は、もって百歳の疾苦をぬぐうに足る。

(1910年6月 『聖書之研究』) (信8/48)


内村語録<人の大小>

 人間として見たる人間ほど、つまらない者はない。彼は利欲の動物である。野心の
悪魔である。彼のなす事はすべて自己のためである。彼は憎むべき、のろうべき、滅
びに定められたる者である。

 そして人の敵の見たる人はすべてかくのごとき者である。ローマ天主教会の見たる
ルーテルはかくのごとき者である。彼に何の善きところはなかった。彼は野心と憎悪
にかられて、彼のいわゆる宗教改革をおこのうた。彼はただに、いとうべき者、斥く
べき者、地獄の子としてのろうべき者である。英国聖公会の見たるクロンウェル、そ
の他、教会の見たる無教会信者もまた同じである。

 しかしながら人は人として価値あるのではない。神の器として貴いのである。人は
実は自分のなさんと欲する事をなし得る者でない。欲せざる事をなすべく余儀なくせ
らるる者である。世に改革を計画してこれを実行した人とては一人もいない。改革は
彼に押しつけられたのであって、彼はやむを得ず、その任に当たったのである。自ら
進んで成った預言者なく、また自ら選んで成った真の伝道師はない。みな、ある他の
勢力に強いられて成った者である。いずれも神の器である。自分の計画せざりし事、
自分の能力以上の事をなした者である。この事を知らずして、歴史を正当に解するこ
とはできない。

 ゆえに人の事業を見ただけで、その人の大小はわからない。大事業家必ずしも大人
物でない。多くの場合において、小人物が大事業をなした。思いがけない人が思いが
けない事をなす。この事を知らないで、人の人物を批評するがゆえに、多くの誤解に
陥るのである。神が彼をもって大事業をなしたのである。賛(ほ)むべきは神であっ
て彼でない。そして人において賛むべきは、彼が喜んで自己を神の器としてささげ、
その命に服従したことである。器の優劣、大小の問題でない。その服従、拒否のそれ
である。ルーテルもクロンウェルもその服従において偉大であった。そしてわれらも
また自己を神の器として差し出して、小にして大事をなし得るのである。
   (1926年9月 『聖書之研究』)(信23/21-)


内村語録
<文化の基礎>

 文化の基礎は何であるか。政治であるか。経済であるか。文学
であるか。芸術であるか。そうでないと思う。これらは文化の諸方面であって、
その基礎でない。文化の基礎は文化を生むものでなくてはならぬ。木があって
実があるのである。文化は実であって、これを結ぶ木ではない。

 文化の基礎は宗教である。宗教は、見えざる神に対する人の霊魂の態度である。
そして人のなすすべての事はこの態度によって定まるのである。ギリシャ人の神の
見方によってギリシャ文明が起こったのである。キリスト教の信仰があってキリスト教
文明が生まれたのである。その他、エジプト文明、バビロン文明、ペルシャ文明、
インド文明、シナ文明、日本文明、一としてしからざるはなし。深い強い宗教の無い
所に大文化の起こったためしはない。無神論と物質主義は、何を作り得ても、文明
だけは産じ得ない。

 薩長藩閥政府の政治家らによって築かれし明治、大正の日本文明なるものは、
宗教の基礎の上に立たざるがゆえに、文明と称内村鑑三語録  テーマ別  年代順  総索引


<最も貴き知識>

知識、知識と言う。まことに知識は貴くある。
されども信仰は知識よりも貴くある。そうして神は信仰よりも貴くある。

「神を実験的に知りし知識」、それが信仰である。
そうしてこの知識すなわち信仰は、何ものよりも貴くある。

この知識、すなわち神を実験的に知る知識ありて、他に何ものも要らない。
冨も要らない。位も要らない。知識も要らない。

されどもこの知識すなわち信仰ありて、知識欲はさかんに起こり、
栄光と貴尊とは、神の定めたまいし時に、求めずしてわれに臨み来たるのである。

まず神を求めよ。さらば万物はなんじに与えらるべし。
有るも可なり、無きも不可ならずである。

神を知らざる者は知識を求めて焦慮(あせ)ってやまない。

彼らは飽くなきの知識欲を有して、あるいは知識に誇り、あるいは無知に失望する。
信者はしからず。

彼は神において万物を有するがゆえに、飽くことを知りつつ、知識より知識へと進む
のである。(1922年1月 『聖書之研究』)(信8/138)


<浅い日本人>

 日本人は浅い民である。彼らは喜ぶに浅くある。怒るに浅くある。彼らはただ
我を張るに強くあるのみである。忌々しいことは、彼らが怒る時のおもなる動機
であって、彼らは深く静かに怒ることができない。まことに彼らのある者は、永
久に深遠に怒ることのいかに正しい神らしいことであるかをさえ知らない。ゆえ
に彼らの反対は恐ろしくない。彼らが怒りし時には、怒らしておけば、それでよ
いのである。電気うなぎが、その貯蓄せる電気を放散すれば、その後は無害にな
るがごとくに、日本人は怒るだけ怒れば、その後は平穏の人となるのである。も
し外国人が日本人のこの心理を知るに至らば、彼らは日本人を扱うの道を知って、
彼らを少しも恐れなくなるであろう。この点において、日本の社会主義も無政府
論者も恐るるに足りない。抵抗せずして放任しておけば、彼らの熱心は暫時にし
て醒めるのである。

 日本人は雄羊と同じく、ただ正面より反抗する時にのみ強くある。後方より情
実をもって押す時は、御すること、いたって容易である。そうしてこれは実に嘆
かわしいことである。 De profundis ととなえて、深淵の底よりわき出る喜びと
悲しみと怒りとの無き民は、浅い小なる民である。彼らの中より、偉大と称すべ
き何ものも起こらない。深く怒らざる者に、キリストはもちろんのこと、エレミ
ヤもダンテもミルトンもワーズワースもわからない。そうして人を深くする者に
して聖書の教えのごときはない。イスラエルの民が、モーセおよびその他の預言
者らによって深くせられたるがごとくに、彼らの言を収むる聖書が、キリスト教
国の民を深くしたのである。欧米人よりイスラエルの感化を取り除いて、彼らも
また日本人同様に浅い民である。「深遠、深遠に応う」(詩篇42/7)と彼らの詩
人は歌うた。

 人は何びとも、エホバの神に深くしていただくまでは浅い民である。欧州にニ
ーチェのような、キリスト教に激烈に反対する思想家の起こった理由はここにあ
るのである。彼らはキリスト教によって深くせられて、その深みをもってキリス
ト教をあざけり、また攻撃するのである。東洋の儒教や仏教をもってしては、と
うてい深い人間を作ることができない。(1924年4月 『聖書之研究』)(信24/174-)


内村語録<最も偉大なる事>

最も偉大なる事は、人に勝つ事にあらず、人に負ける事なり。
彼にわが場所を譲る事なり。その下に立つ事なり。
喜んでその侮辱を受くる事なり。つばきせられて十字架につけらるる事なり。

かくなし、かくなされて、われは初めて神の心を知るを得るなり。
まことに高き者は低くせられ、低き者は高くせらる。
われら、神に高くせられんと欲すれば、人に低くせられざるべからざるなり。
    (1912年1月 『聖書之研究』)(信8/133)

伊藤武司   プロフィール
    1944年東京生まれ。青山学院大学法学部私法学科出身。米国UTS大学院宗教教育科修士コース修了。帰国後教会牧師。アイザック外国語スクール社長などを歴任。2000年アメリカの家族の元へ帰り、現在に至る。テキサス州州都オースティン在住。
Takeshi Ito 1740 Timber Ridge Rd. ap 120
Austin,TX. 78741  USA    E-mail: tyito@hotmail.com
 連載原稿  『近代日本の預言者・内村鑑三』(宗教新聞:2016年6月5日~17年11月20日号)
 目次  初めに、再臨と新文明の希求 神と青春の狭間 文明思想の展開
 平和論抜粋預言者の相貌  (158頁)  ワードはこちら⇒